Sweet Memories 2006

風がさーっと吹いて桜の花びらが舞うと、
風が優しく思い出を語りかけてくるようだ。
いつも不思議に思う。
なぜ春の風には、ほんのりとした甘い香りがするのだろう。
3年前もそうだった。
それは、自分の人生が激変していく時の流れの中、
何年たっても変わらない。

第3章 公共事業の闇  第1節 元気の源

 給食センターの内覧会で、絵にかいたような偶然の出会いで真央と話ができてから、10日が過ぎていた。あれから翔は2度、朝の交通安全活動に行った。


 一度目は、いつもの7時半に真央と会い、挨拶を交わした。その時は、おはようございますの後に「この前はありがとうございました!」と真央に言葉をかけることができた。
 真央からも「いいえ、小沢先生もお疲れさまでした。」と返事が返ってきた。返事が返ってきたことも嬉しかったのだが、何よりも翔が嬉しく感じたのは真央の笑顔だった。
 この前までは硬い表情に変っていた真央だが、今回は、最初に出会った頃より、いや、それ以上に満面の笑みを翔に返してくれたのだった。「小沢先生」と呼ばれたことが、翔にとってはとても他人行儀な呼び方に感じたのだが、真央のこれまでにない笑顔が、そんな翔の小さなこだわりを吹き飛ばしていた。
 信号が赤になり、横断歩道を渡り切った真央が、歩みを進めながらもう一度翔に軽く顔を向けて、こくんと挨拶を送ってくれた。それを見ると、益々、翔はまた天にも昇るような気持ちになったのだった。真央の後ろ姿が見えなくなるまで、愛しい主人を見送る子犬のように立ちすくんでいた翔だった。


 2度目の朝街頭は翔にとって何ともお粗末な結果だった。
 真央との偶然の出会いから2度目の朝街頭に行く前の晩、翔は6月から始まる議会の一般質問に向けて深夜3時まで原稿の準備をしていた。一方、朝街頭は、翔が議員2期目になり、いろんな用事が朝から入るようになって、週1回か多くても2回くらいしか出来なくなっていた。深夜まで仕事をしていた翔だったが、次の日の朝は何も予定が入っていなかった。
「明日は行けるな。」
 そう思うと、ワクワク感で仕事の疲れも吹っ飛ぶようだった。
「朝6時に起きるとして、3時間寝れるな。」
 そうつぶやくと、ちょっと古びた目覚ましを6時にセットし、そそくさとベッドにもぐりこんだ。そして、幸福感を体いっぱい感じながら眠りについた。


 朝、ふっと目が覚めた翔は、何故か外が妙に明るい事に気付いた。「あれ、目覚ましがなっていないのにやけに明るいな。」寝ぼけた頭で考えていた翔を覚醒させるのに、そう時間はかからなかった。
「しまった!」
 幸せ感を一体化していた布団だったが、あわてて撥ね退けると、机の上に置いていた目覚ましを飛びつくように手に取った。5時33分だった。一瞬安堵したが、針が動いていない事にすぐ気がついた。部屋の掛け時計を見た。7時10分を指していた。翔は現実を受け入れた。そして、本能のままに叫んだ。
「オーマイガー!!」


 翔は、慌てふためきながら顔を洗うと、タンスからシャツとズボンを取りだし、ネクタイを着け、鏡の前で身だしなみを整え、朝街頭用のライトグリーンのジャンパーを手に取り、取り急ぎ靴をはくと、飛び出すように部屋を出た。そのドタバタぶりでアパートが揺れるようだった。
 アパートの階段を降りながら、ジャンパーを身にまとい、腕時計を見た。7時20分を過ぎようとしていた。
「いつもは自転車で15分だけど、飛ばせば10分で行けるな。間に合う!」
 心の中でそうつぶやくと、愛車の元へ駆け寄った。鍵を外し、ハンドルを握り、思いっきりペダルを踏もとした時、翔の目に飛び込んで来たものがあった。
 それは、支援者のおばあちゃんからもらった木彫りの交通安全のお守りだった。いつも自転車で移動する翔を見て心配していたのか、日光に旅行に行った時に売っていたと言ってお土産に買ってきてくれたのだった。
 翔は、おばあちゃんの気遣いをとても嬉しく思い、お守りを自転車のハンドルの真中にくくりつけて大切にしていたのだった。そしてそのお守りは、パニック状態になっていた翔を落ち着かせるのに十分な効果があった。
「そうだよなー。気持ちのままに突っ走って事故するとこだった。危な-」
 翔は、そうつぶやくと、お守りをぎゅっと胸に握りしめ、おばあちゃんの顔を思い浮かべながら感謝をするように目を閉じた。
 「有り難いなー。」
 再びつぶやくと、翔は自転車にまたがりゆっくりとペダルをこぎ出した。有り難いと思ったのは、家族を無くし天涯孤独の身になった翔にとって、わが身を案じて心配してくれる人がいることへの、何にも代えがたい感謝の気持ちの表れだった。
 翔が乗った自転車は、朝のまだ澄んだ空気を切りながら、故郷の町を進んでいった。


 「家族か―」風を切りながら進む翔は、ふとそんなことを思った。
 さっきのお守りで、おばあちゃんの暖かい心遣いに家族のぬくもりを感じたのだったが、そのぬくもりをもっと求めたいような気持が翔の中に芽生えていたのだろう。ただ、その事を翔ははっきりと認識はしていなかった。しかし、無意識の中で心が欲していたことは間違いなかった。翔は無性に真央に会いたくなっていた。
 そんなことを思っているうちに、安全運転で行こうと思いながら自転車を走らせた翔だったが、心無しかペダルをこぐ足の回転が速くなっていたのだった。
 しかし、翔が交差点についた時、時刻は7時33分になっていた。自転車を、歩道の通行に邪魔にならないように置き、交差点に立った。
「坊っちゃん先生、おはよー」
 いつものように子供たちがじゃれながら挨拶してくる。翔は、それが癒される瞬間でもあったが、今日に限っては、いつものように子供たちにかまうものの、真央の事が気になり気もそぞろだった。
 結局、7時35分になり、40分を過ぎても真央は現れなかった。
「今日は、一条さんもちょっと遅刻しないかな。」
心からそう願っていた翔だったが、そんなに都合がいい思いは実現するものではなかった。
事実、真央はいつものように7時30分ちょうどに横断歩道に着いていたのだった。
 一方、真央も「今日もいないなー。」と心の中でつぶやき、翔がいないことを淋しさも混じりながら、がっかりとした思いになっていたのだった。
 ただ、そんな真央の思いを知る術もなく、翔もその日は、深い海の底に沈んだかのような気持ちで、朝の街頭活動を終えたのだった。


 どんよりとした気持ちで「何であの時携帯番号を聞かなかったのかな―」「作戦ミスだったな―」など、そんなことを考えながら、翔が自宅にいったん戻ろうと、肩を落としながら自転車にまたがりかけた時、振動と共に携帯が鳴った。
「誰かな?」
 まだ、8時過ぎだったので、特にそんなふうに思ったのだろう。翔が着信を見ると高木からだった。ますます、翔の中に不安な気持が広がった。
「おはようございます、高木さん。」
「おはよう。翔、朝からすまない。ひょっとして、いつもの街頭中?」
「いえ、もう終わりました。高木さん、どうしたんですか?」
 いつもは、大切な用がある時にくらいしかかけて来ない高木だった為、なおさら何かあったのかと翔は思ってしまった。
「いや、実は俺が今から一日セミナーの講師をしなきゃいけなくて。それで今電話したんだけど。翔、今晩空いてる?」
 高木は、MBA(経営学修士)も持っていたが、国が認定している中小企業診断士の資格も取っていて、市議会議員の傍ら、経営コンサルタントの会社も経営しているのだった。
そして、分かりやすい内容と軽妙な語り口、また、端正な顔立ちから、経営セミナーの講師として、あちこちの商工関係の団体から依頼が来ているのだった。
 高木にとっては市議会議員の仕事が最優先であるので、セミナーの依頼を受けるのはたまにだったが、議員控室でも講師の依頼を断る電話をする高木をいつも見ていた翔は、「高木さん、コンサルタントでも十分食っていけるんだろなー。」という思いをしていたのだった。
 そんな忙しい高木が、急に誘ってきたので、翔は益々気になりだしていた。
「空いてますけど、何かありますか?」
 高木だと、こんな時、どんな要件なのか瞬時にに分かるのだろう。翔もにあれこれ考えたが、思いもつかないので素直に聞いてみた。
「いや、飯でもどうかなと思って。」
「飯ですかー」
 意外な誘いだったので、ちょっと拍子抜けした翔だったが、次の高木の言葉で奮い立った。
「いや、この前言ってた作戦会議。真央ちゃんの。今晩どうかなと思って。」
調子がいいと言えばそうなのだが、今日の翔にとってこの誘いは何よりも元気の源になった。急に翔の態度が明るくなった。
「大丈夫っす!高木さん、是非行きましょう!」
そんな翔の様子を高木は電話の向こうで微笑みながら感じとっていた。
「OK。じゃ、7時に駅前のレストランで。ラバレンヌってあるだろ。」
「・・・」
 通じていない事を高木は悟った。
「あのイタリアンレストラン。駅の交番の隣にある。」
「あー、交番の隣のおしゃれっぽいお店ですね。レンヌですね、分かりました。」
 通じたようだったので、高木は納得した。
「OK.。じゃ7時によろしく。」
「はい、よろしくお願いします。高木さん、ありがとうございます!」
 翔がそう言うと携帯から再びOKと言う高木の声がして電話が切れた。そしてそこには、さっきまで落ち込んでいた人間とは思えないほど元気になっていた翔がいた。
 「よっしゃー」
 そう言うと、意気揚々と自転車にまたがった。そして足取り軽くペダルをこぎ出した。
翔が乗った自転車は、新緑が香る街並みを颯爽と進みだした。その足取りは、自転車も「ルンルン」とリズムを取っているかのようだった。

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