Sweet Memories 2006

風がさーっと吹いて桜の花びらが舞うと、
風が優しく思い出を語りかけてくるようだ。
いつも不思議に思う。
なぜ春の風には、ほんのりとした甘い香りがするのだろう。
3年前もそうだった。
それは、自分の人生が激変していく時の流れの中、
何年たっても変わらない。

Sweet Memories 2006 一部加筆しました。

小説の序盤で加筆をいたしました。

第3章 第3節 父の死の真相 

 真っ黒いサングラスをかけた高木は、以前、大学の後輩である帝都新聞の記者、堀内と会ったホテルに来ていた。ロビーを見渡し、知り合いがいない事を確認すると、エレベータに乗って6階のボタンを押した。6階に到着すると、メモを背広の内ポケットから取り出し部屋番号を確認し、フロアの案内図に目をやりながら待ち合わせの部屋に急いだ。

 605号室の前に立つと、ゆっくりと3回ノックする。すると、間もなくガチャリとドアが開いた。出てきたのは堀内記者だった。昨晩、堀内から高木に電話があり、会いたいが人に聞かれたくない話なので、ホテルの部屋を取るということだった。
「先輩、すみません。」
 そう言って、深刻な表情をした堀内は高木を部屋の中へ丁重に導いた。
「誰にも会いませんでした?」
「ああ、この前の人相の悪い二人組もいなかったし、俺の知り合いにも会わなかったよ。」
 そう返すと、高木はゆっくりとサングラスをはずしソファに座った。すると、堀内は
ほっと安堵する顔を見せた。そして、すぐに真顔に戻ると堰を切ったように話し始めた。


「高木先輩、あれから金城市長の事を洗っていたんですが、次々に不審な点が広がって行ったんです。まず、入札前に亡くなった建設会社の営業マンの奥さんに会ったんですけど、奥さんの話では、夫は自殺するような人じゃないと言っていました。何故かと言うと、来月にあるお嬢さんの初ピアノリサイタルをとても楽しみにしていたそうです。それに、家庭で仕事の話はあまりしないそうですが、あの給食センターについては『また同じ仕事ができる』って楽しそうにしていたそうです。」
「同じ仕事?」
「ほら、先輩、国の補助事業で作った隣市の給食センターですよ。全国のモデルケースになっている。あれをやったのが亡くなったご主人の会社だったそうです。」
「なるほどな。あの工事自体も高い評価だったと聞いてるよ。それならまた腕の見せ所と思うのは当然だな。」
「そうなんです。ただ、亡くなる2,3日前から、ご主人は何かに怯えるような、困ったような顔を時々見せていたようです。が、奥さんが聞いても、何でもないとリサイタルの話に話題を変えて、わざと心配させないような態度だったそうです。だから、ご主人が亡くなった時、奥さんは警察に事件性がないのか捜査を強く訴えたみたいですが、結局、上の判断で事件性はないということであっさり切られたそうです。」
「なるほど―。あの署長と金城はけっこう近い関係らしいという噂は俺も聞いたことがあるよ。」
「そうなんですか-。そうすると、上と言うのはトップと言うことになっちゃいますね。、益々きな臭いですね。それで、今度は、ご主人の建設会社の設計を担当した若い技師に探りを入れてみたんです。そしたら、給食センターの見積もりで、一番難しいところは、ボイラー関係の積算らしいんです。そのボイラーの技術がその会社の得意なところでもあったらしいんで、落札の自信はあったと、その若い技師も言ってました。ただ、給食センタ-の見積もりは、ボイラーだけでなく、働く人の動線や管理栄養士の意見とか、衛生管理面でのクリアー事項とか、かなり総合的な知識がいるらしく、それを一手に仕切っていたのが亡くなった営業マンだったそうです。だから、急死したということで、最後の見積もりの詰めができなくなって、泣く泣く諦めたそうでした。」


「なるほどな-。聞くほど真相が見えて来る感じだな。」
「ええ、高木先輩。ただ、それ以上つかめなくて。結局、全部、状況証拠に過ぎないんですよね。はっきりした証拠がないんですよ。」
 そう言うと、堀内は膝を手でぎゅっと握りしめながら本当に悔しそうに顔を歪めた。
「証拠か。たしかに金城のたぬき親父、これまでも黒い噂が出ても絶対に証拠が出て来なかったんだよな。」
 高木も悔しさを滲ませながら吐き捨てるようにつぶやいた。すると、堀内は、そんな高木の様子をみて、逆に高木を慰めるような態度に変わった。
「ところがですね、先輩。自分も視点を変えて、市長の過去から調べてみたんですよ。」
「市長の過去?」
「そうなんですよ。実は、同じ帝都新聞の北條礼子ってご存知でしょう?」
「あ-、あのおっぱいが大きい子だな。」
 堀内は、高木らしいストレートな言い回しに、ついにやけてしまった。
「はい、その北條が、結構、金城に気に入られているのを利用して、レアな情報を時々つかんで来るんですけど。高木先輩に今話したことを、北條にもかいつまんで話したら、以前、市長と取り巻きの市の幹部連中何人かで飲みに行った時に、酔った市長が満州の歌を歌ったらしいんですよ。確か、「満州娘」って北條は憶えてましたけど。北條が見逃さなかったのは、気持ち良さそうに歌った後に、市長が小声で「懐かしいな」って言ったらしいんですよ。北條は、市長選挙の取材で、市長の経歴は頭に入っているらしいんですが、満州にいた事はないはずなんです。それで、自分は変だなと思って、市長の過去を調べていたら、どうもおかしいんです。」
「おかしい?!」
 予想もしなかった堀内の話の展開に、いつも冷静な高木が驚いたように声を張り上げた。
「ええ、先輩。市長は27,8歳の時、この町にやってきて不動産会社を始めたらしいんですが。」
「うん、それは俺も知ってるよ。ライオンズクラブに入って、奉仕活動に一生懸命だったって聞いたけど。」
「はい。ただ今では、それも市長になるための偽善運動って言われてますが。問題は、この町に来る前の足跡なんです。それまでは、九州の炭鉱町で生まれ、育って、中学を出てからは、父親と一緒に炭鉱で働いていたそうなんです。だから、満州には住んでないはずなんですよ。それで、ますますおかしいと思って、その炭鉱はもう何十年前に閉山にはなったんですが、その九州の炭鉱があった町に行ってみたんです。」
「それで、ここ何日か留守にしてたのか。」
「はい。あまり行き先を洩らしたくなかったんで、会社の人間にも、北條以外、行き先を言わずに有給を使って取材してたんです。」


 高木は、それまでも堀内の職業意識の高さにかなり一目置いていた。それは、疑問に思ったことは徹底して調べ抜こうとする姿に、ジャーナリストとして尊敬の気持ちを持っていたからだった。そして、敵に対しての情報漏れを心配し、有給を使ってまで自費で取材を行っていた事を聞くと、後輩ながら、改めて感心してしまうのだった。
 堀内は興奮気味に話を続けた。
「その炭鉱町だった所で、市長を知っている人間がいないかと思って、市長の写真を持って3日間訪ね回ったんです。100人以上は聞いたんですが、皆知らないって。ただ、最初から簡単には分からないと予想はついていたんです。理由は、ちょうど市長がこの町に来る2,3年前に大きな落盤事故があって、かなりの炭鉱夫が亡くなったらしいんです。行方不明者もかなりあったみたいで。 結局、それからすぐに閉山になって、そのあとはちりじりばらばらと町を出ていく人も多かったようです。
 ところがです。4日目になって、あきらめ半分で、ホームレスみたいな人が住んでいる地域に入り込んで取材を続けたら、何人か目に『金城太市を知っている』という老人に出会ったんです。正直、びっくりしました。何でも、市長より10歳くらい年上だったらしいんですけど、同じ班で仲良かったって。それで、写真を見せたら、似てるような似てないような返事で。老人は、落盤事故以来会ってないからって言ってましたけど。半ばがっかりしてたら、その老人がたばこをくれって言うから、火をつけて渡したらうまそうに吸いながら『あいつは子供のころから暴れん坊で体もでかかったから、どっかで生き延びてるんだろう』って懐かしそうにいうんです。」
「体がでかい?!」
「はい。自分も、そこが引っ掛かって。それで、どのくらいでかかったのかって聞いたら、6尺はあったって。」
「6尺?・・・っていうことは、180センチ以上じゃないか!」
「そうなんです、先輩。市長の身長はせいぜい・・」
「165もないぞ!」
 高木がそう叫ぶと、二人は目を合わせたまま黙まりこんだ。ただ、二人とも全身に鳥肌が立つような高揚感を感じていたのだった。数秒後、先に高木が絞り出すように口を開いた。
「じゃあ、あいつは一体誰なんだ?!」
 そう話すと、ホテルの部屋がまた沈黙に包まれた。


 高木は、さっきの高揚感が、何か恐ろしい闇に包まれていくような恐怖感に変わっていくのを感じていた。
「高木先輩、自分もその事に初めて気づいた時、深い闇に近づいてしまったと思いました。
たぶん、というか、間違いなく市長は別人ですよね。ただ、これも今のところきちんとした証拠がない。たったひとりの証言だけじゃ弱いですからね。しかも、ホームレスの老人ですし。」
 高木は堀内の話を聞いているようだったが、まだ心ここにあらずという感じだった。実際、高木は、まず、市長が他人にすり替わっていたとしたら、どんな方法だったのかを考えた。いくつか思いついたが、だいたい集約された。 次に考えたのが、「本物の金城太市」にすり替わるまで市長は何をやっていたのかということだった。
 もちろん、陽が当たる道を歩いてきたわけではない事は分かる。しかし、頭が切れる高木でも、ただならぬ悪事を働いてきたことは分かるが、どんな悪事を働いてきたかは集約がつかなかった。ただ、問題は、そんな道を歩いてきた悪党が、この町の市長と言うリーダー、名士であり、それを市民は知らないということだった。
 高木は、事の重大さを感じるかのように、2,3度、身震いしながら首を振った。そして、重くなっていた口を開いた。
「堀内、これは慎重に事を進めないと、こっちが大やけどするぞ。影響が大きすぎる。」
「そうですね、先輩。」
 そこは堀内も同感だった。しかし、堀内はまだ話し足りないような顔つきだと、高木は感じた。すると、それを察したように堀内は驚くべき事実を告げた。
「高木先輩、その他に分かった事がもうひとつあって。じつは、何年か前にも、老人に同じことを聞きに来た人物がいたらしいんです。」
「他にいた?」
 高木は眉をしかめながら不思議がっていた。
「はい。老人は、いつ来たかはっきり覚えていないって言ってましたが、誰が来たかは分かるって言って、懐のきんちゃくからぼろぼろになった名刺を取りだしたんです。」
そう言うと、堀内はちょっと間を置き、意を決したように口を開いた。
「何とそこには、小沢翔議員のお父さん、小沢智太郎議員の名前があったんです。」
「翔の親父さんの?!」
 高木は絶句した。まさかの名前だった。率直に動揺した。しかも、生前、翔の父は、高木にそんなことは一言も話さなかった。
「先輩、自分も名刺に書いてある名前を見た時、何が何だか分からなくなりました。」
 いつも沈着冷静な高木のうろたえぶりをみて、堀内は共感するかのように話した。
 また沈黙が部屋を包んだ。
 しばらくすると、高木は何かを告げようと堀内を見た。堀内も、何か言いたげだった。ただ、お互いに何を言いたいかは分かっていた。高木が先に口を開いた。
「だとすると、翔の親父さんが死んだ真相は・・・」
 堀内は、黙ったまま頷いた。高木がすべてを話さない気持ちも十分理解できた。
「堀内、この事は翔にはまだ言わないでくれ。もっと確証が欲しい。それと、今日の話も話す相手は十分に注意しよう。危険すぎる。」
 分かりましたと堀内は大きくうなずくと、先に部屋を出た。高木は手で額をつかみながら立ちつくし、堀内が言った事を整理していた。
 しばらくして、深いため息をついた。時計に目をやると、もう10分が経っていた。高木は、静かにドアを開け、人がいない事を確認すると、すっと廊下に出てエレベーターに向かった。バタンとしまったホテルの部屋に静寂が戻った。しかし、人気がなくなってもまだ、部屋の空気は黒い闇に包まれていたのだった。





予告


 二人の恋
 (1) 初デート
 (2)もうひとつの食事会
 (3)墓場からのメッセージ

第3章 第2節 ドタキャンから駒?

夏至に近づき、すっかり日が長くなった6月、真央は恒例の二人女子会をするために、いつものイタリアンレストランで米倉の到着を待っていた。



 給食センター内覧会があった日の帰り道、米倉に心の内をすべて打ち明けた真央は、その日以来、まるで新しい自分になった様な気がしていた。それは周囲の人間が気づくほど別人になったというわけではなく、明るく社交的な性格は以前と同じだったのだが、明らかに真央の人生観が変わっていたのだった。
 土手で話をしたその日は、米倉の巧みな質問で、無意識の中に封印していた真央の本心が明らかになって、真央は「自分は本当は翔と恋をしたいんだ」ということを認識することができた。それは、まるで「自分が知らない自分」がいることに気が付いたという感じだった。
 しかし、それだけで新しい自分になれたというわけでもなかった。米倉にすべてを打ち明けたことで、気持ちは楽になったし、心の氷の壁が解けていくような変化も感じた。
ただ、両親を失った恐怖のトラウマはまだ残ったままだった。


ところが、人生は良いきっかけが続くことで一気に好転することがあるように、その日の真央も米倉に打ち明けて、すっきり出来ただけで終わらなかった。
 米倉と別れた真央は自宅に帰り、ハッピーと共に夕食を取った。食事がすむと、コーヒーを飲みながら、ハッピーにさっきあったことを話した。いつものようにハッピーは真央の胸に抱かれてじっとしているだけだったが、真央にとっては黙って聞いてくれているようだったし、出来事を話すだけでまた心が整理されるようだった。
 その後、真央は風呂に入り、就寝する前の日課になっているネットニュースを見ていた。すると、ある記事を見て全身に衝撃が走った。
「世界に4500万人の奴隷生活者」、そんな見出しだった。
 真央は驚きながら記事に目を走らせた。内容に改めてショックを受けた。
「こんな生活を強いられている人がまだ世界にいるんだ。しかも4500万人も・・」
真央はそう思った。ただ、これまでだったらそのニュースをそんな深刻に捉えきれなかったのかもしれない。真央が今そう思えたのは、その日、米倉のおかげで心の葛藤が無くなり、精神的にも余裕ができていたからだろう。
 真央は更に思いを巡らせた。
「自分もいきなり両親を失い15歳から天涯孤独の身になった。そして、孤児院に入った。正直、孤児院でもつらい思いや嫌な経験をいっぱいした。でも、奴隷のような生活ではなかった。きちんと食事も出来た。毎日ではなかったけどお風呂にも入れた。暖かい布団に寝れた。これまでは、自分が送ってきた人生に、神様を恨み、何で自分だけこんな目に会うんだろうといつも思っていた。しかし、世の中には自分より辛い人生を送っている人がいる。しかも4500万人も。」


 真央は、硬い表情のままノートパソコンをパタンと閉じると、ベッドにもぐりこんだ。同時に、ハッピーも一緒にもぐりこんできた。真央はじっと考えた。
「私は今まで私のことしか考えていなかった。私が世の中で一番不幸な人間だと。でも、私より辛い人生を送っている人は世界に一杯いる。私、間違っていた。間違ってたわ。」
 そう思った時、真央の中で明らかに変わるものを感じた。ハッとした瞬間だった。
同時に、それは溶けかけていた心の氷の壁が砕け散った瞬間でもあった。
 「ハッピー、私もう泣かないよ。」
 真央がそう告げると、まるで分かったかのように、ハッピーはいつも涙を舐める真央の頬ではなく、真央の鼻をペロンと舐めた。
「ハッピー、分かってくれたの?」
 真央がそう言うと、ハッピーは真央の懐の中でぐるんとひと回りして、元に戻ると顔を真央の胸に何度かすりよせた。そんなハッピーのしぐさを見て、真央は初めて布団の中にいる時に笑った。
 そして、その日以来、真央は悪い夢にうなされてたり、泣きながら目が覚めると言うことが無くなったのだった。


 
 待ち合わせのレストランの、二人がお気に入りのいつもの窓側の席に座り、ひとり米倉を待つ真央は、そんな日の夜のことを思いだしていた。
 真央が、トラウマから解放され、人生をこれまでとは180度違う新たな価値観で送る勇気を得ることができたのは、米倉や翔の存在がきっかけになったのは間違いなかった。
「翔君に会いたいなー。」
 小さくつぶやいた真央は、いつのまにか「小沢先生」が「翔君」に変わっていたことにドキリとした。そして、小さくため息をつきながら腕時計を見た。ちょうど7時になっていた。時間に几帳面な真央は、待ち合わせの必ず10分前には到着しているのだった。
「恵先輩まだかな―」
 そう思った瞬間、真央の携帯が振動した。米倉からだった。
 「もしもし。恵先輩。」
 店内は携帯は禁止ではなかったが、真央は周囲に響かないようにうつむき加減になり、小さな声で言囁くように話した。
 「真央ちゃん、もう着いてるでしょう。話せる?」
 「はい、大丈夫ですよ。」
 「真央ちゃん、ごめんね―。ちょっとまだ学校を出られないのよ。」
 「えー、何かトラブルですか?」
 「うん、大したことないけど、でも、今日は遅くなりそう。ドタキャンで悪いけど、ごめん、今日はキャンセル。でも、何か食べていって。今日の分は私がおごるから。」
「そんないいですよ。気にしないでください。でも、恵先輩、よく分からないけど頑張ってくださいね。」
真央がそう言うと、米倉は2度ごめんねを繰り返し電話を切った。
 これまで米倉がドタキャンしたことはなかった。聡明な米倉は、絶対残業が無いと分かった日か、早く帰れる段取りを見通してから誘っていることも真央は分かっていた。そんな米倉からのキャンセルの電話だっただけに、真央の携帯のディスプレイに「切断」と会話が切れた事を表示する文字を、うつむき加減のままじっと見て、「何があったんだろうと。」と不思議に思った。しかし、見当もつかないので、また小さくため息をつき、せっかく来たから何か食べようかな―という考えに移りながら顔を上げた瞬間、真央は「あっ」と声をあげた。
 そこには、なんと翔が立っていた。ドキリと胸が鳴る音が聞こえるようだった。
「こんばんは-」
 ちょっとはにかむような笑顔で翔は真央に挨拶をしてきた。
「こ、こんばんは。」
 真央の声が少し裏返っていた。そして、あまりにも意表をついた展開に、そんな簡単な返答しか出来なかった。
「一条先生、お待ち合わせですか?」
 さっきの、はにかんだ様子から少し意を決したような表情で、翔が聞いてきた。
「いいえ。」
 真央の胸は、まだドキドキ鳴っていた。
「えっ!」
今度は、翔が驚いたような顔をした。それを見て、今度は真央が不思議に思った。   
「どうしてそんなにびっくりしてるんだろう。」
 真央がそう思うのも無理は無かったのかもしれない。しかし、実は、その理由は数分前の出来事にあったのだった。


 数分前、ちょうど時刻が7時になる頃だった。駅の改札を出た翔は、高木との待ち合わせ場所のレストランに小走りに向かっていた。
「レンヌ、レンヌ。」とつぶやきながら、交番の方に向かった。すると1分もしないうちに
交番が目に入り、その手前にレストランの看板が見えた。
「あった、あった。」
 そう言って、レストランの入り口に到着し、店に入ろうとした瞬間に翔の携帯が鳴った。
高木との待ち合わせに遅れそうだったことが気になったが、議員という仕事上、重要な電話も多いので反射的に胸ポケットから携帯を取り出し表示を見た。高木からだった。
「もしもし、高木さん。すみません、もう着いてます。」
 時間に厳しい高木が、しびれを切らして電話してきたと思った翔は、先に誤っておこうとしたのだった。しかし、高木の反応は予想外だった。
「ごめん、翔。違うんだよ。俺が行けなくなったんだよ。ちょっと急用が入って。」
「そうですかー。高木さん、いつも忙しいですからね。」
 ちょっとがっかりしながら、そうは言ってはみたのだが、翔は高木がドタキャンするのも珍しいと思った。ただ、先日の後輩と言っていた記者が、市長のスキャンダルを探っている件もあったので、よっぽどのことがまた起こったのかというふうに、勝手に解釈したのだった。
「翔、店に着いているんだったら、何か食って帰れよ。今日の分は俺がおごるから。今日は月曜だから、店もそんな混んでないだろ。」
 高木がそう言うと、その言葉に誘導されるようにオープンになっている店の中を覗き込んだ。その瞬間、翔の目に真央の姿が飛び込んできた。
「た、高木さん、か、彼女がいますよ!一条真央ちゃん!」
 給食センターで偶然会ったことも驚いたが、今度も高木が絡んで真央との偶然の出会いがあったことに驚愕したのだった。
「先輩どうしましょう。」
 今まで「先輩」などど言ったことはないのだが、それは翔が高木に助けを求める気持ちを十分表わしていた。
「どうしようって、彼女、ひとりなんだろ。とりあえず、挨拶してみろよ。ひょっとして淋しく食事しているのかもしれないぞ。」
「そうですね、そうかもしれないっすね。当たって砕けろっすね。」
「砕ける?」そんな翔の言葉を聞いて、高木はちょっと違うなと思ったのだが、とにかく翔を鼓舞することを優先した。
「そうそう、男は度胸だよ。落ち着いて行けよ。」
 高木のアドバイスで、翔は少し冷静さを取り戻した。
「分かりました、高木さん。チャンスと思って行ってきます!」
「そうそう。頑張れよ翔。グッドラック!」
 会話が終わって、翔は高木の言葉に押されるように「男は度胸、男は度胸。」とつぶやきながら店内に入って行った。
「いらっしゃいま・・せー」
 店長らしき中年男性は、一人の世界に入りぶつぶつ言いながら入ってくる翔を見て、一瞬、危ない客と思ってしまった。しかし、どっかで見たこともある顔だなと思い直しながらお決まりの応対を始めた。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
その言葉で我に返った翔は、店内に目をやった。真央は誰かと電話をしているようだった。
「ひとりです。」
 そう言うと、「やっぱり待ち合わせかな-」と不安な気持ちが湧いてきた。「相手が男性だったらどうしよう。やっぱり帰ろうかな。」と考え始めた。しかし、店員の案内で帰れない状況になった。
「一名様ですね。お好きな席にどうぞ。」
 そう言われると、今更出にくいと思った翔は、店員に導かれるように思い切って店内へ入って行った。真央のテーブルに目をやると、真央は話が終わったらしかったが、携帯を手に持ったまま、まだうつむき加減の姿勢でいた。
翔はちょっと立ち止まり躊躇した。
「やっぱり待ち合わせだわ。高木さんの神通力も今回は効かなかったな―。でも、ここまで来たから、外から見えたんでーなんて言って、挨拶だけして爽やかに帰ろう。」
 そう思った翔は、開き直ったかのように真央のテーブルに近づいて行った、そんな事が、数分前に起こっていたのだった。


 だから、翔は、真央がてっきり待ち合わせと思い込んで聞いたのだったが、予想外の「いいえ」という答えが返ってきた。そして、翔の中では挨拶して帰るという予定だったので、予想外の答えにうろたえてしまったのが「えっ!」という言葉になってしまったのだった。
 翔も、自分のリアクションを見て、真央が一瞬不思議そうな顔になったのが分かった。しかし、翔はすぐ頭を切り替えて、次の展開を爽やかに切りだした。
「そーですか!自分もひとりなんですけど、よかったらぜひご一緒していいですか?!」
 おそらく、以前の翔だったらもっとがちがちになって、こんな軽妙な対処は出来なかっただろう。そんな対処ができたのは、やはり、遡った日、高木と議員控室で話して以来、「相手の気持ちをすべて受け止める」という、相手の気持ちに合わせて対処するという価値観が翔の中に出来上がっていたためだった。
 一方、真央にとって、翔の申し出は願ったりかなったりではあった。ただし、乙女心として、誘ってくれるのを「待ってました」というような態度も取りづらかったのだが、翔が、爽やかに紳士的に、「これは私からの勝手なお願いですよ-」と言うような言い回しで聞いてきてくれたので、真央としてはとても返答しやすかった。そして、なぜかとてもリラックスした気分になった。
「もちろん、どうぞ。」
 ちょっと姿勢を正し、ニッコリして返答する真央は、翔にはとっても可愛く、魅力的に見えた。


 二人は飲み物を注文した。そして、お互いにドタキャンになったことを話すと最初から盛り上がった。それからは、お互いのことを聞きあった。食事もそこそこに、生い立ちやこれまでの出来事、仕事のこと、休みには何をしているかとか、たわいもない話を含めて、ありのままに本心を語り合った。それは、恋の始まりには誰でもそうであるように、お互いに相手のことを少しでも知りたいという欲求が、互いの距離を縮めていく。
 でき過ぎたような「ドタキャンの夜」が更けていくのにつられる様に、翔と真央の恋もゆっくりゆっくり深まっていくのだった。