Sweet Memories 2006

風がさーっと吹いて桜の花びらが舞うと、
風が優しく思い出を語りかけてくるようだ。
いつも不思議に思う。
なぜ春の風には、ほんのりとした甘い香りがするのだろう。
3年前もそうだった。
それは、自分の人生が激変していく時の流れの中、
何年たっても変わらない。

第1章 第4節 ナイスなアドバイス

 朝の街頭活動を終えると、小沢翔は、その足で市役所の議員控室に向かった。議員になってこれと言った運動をすることはなかったが、元々スポーツマンだった翔は、移動にはほとんど自転車を使う。今日も、自転車にまたぎペダルをこぎ出す。桜はすっかり散ってしまったが、春の空気を切って進む翔の顔に心地よい風が吹き抜ける。

もともと甘いマスクの翔は、日に焼けた浅黒い顔が更に「イケメン」を作り出す。スポーツタイプの自転車で町を駆け抜けるイケメン議員に声をかける人も増えてきたし、町を歩く女性も、議員とは知ってか知らずか、アイドルに会ったかのような反応を示すこともある。
「これも良い選挙運動だな」町の人たちの反応をみると、翔はそんなことを思ったりするようになった。そもそも、好きなサッカーをする時間がない為、運動不足にならない為に始めた自転車通勤だった。それが、いつしか良い選挙運動になっていることに、気を悪くしない政治家はいないはずだ。翔が、そう考えるのも不思議ではない。
しかし、翔はそんなふうに思った後で、純粋な思いで始めた事が打算な考えに変わって行くことを許している自分に、嫌悪感を覚えることも度々だった。無くなった父親譲りの実直で正義感が人一倍強い翔の性格が、そう思わせているのかもしれない。
「最近、俺ってダメだな―」そんな独り言も良く言うようになった。


今日も、風を感じながらも「俺って、ダメだなー」とつぶやいていた。しかし、今日の独り言は、いつもの自己嫌悪と全く原因が違っていた。それは真央に対してのものだった。
朝、度々顔を合わせるようなり、最初は、愛嬌よく挨拶を返してくれていた真央だった。翔は、真央の笑顔に一瞬に魅せられた。そして、自分に向けられる笑顔が、他の人のより一段と愛嬌があると感じ、いや、そう思いたかったのだろう、「この娘は俺に気がある」と勝手に決め付けていた。淋しさを紛らわすための朝の活動が、彼女の笑顔が見られるというわくわく感と、初恋の時以来の胸がキュンとなる思いもあって、積極的思考へと変容していった。
今度は、「おほようございます」以外の言葉をかけてみよう、そして、どうやってデートの約束まで持っていこうなど、めくるめく思いを馳せるようになっていた。しかし、翔の妄想が広がって行くに反比例するように、最近、何故か真央の態度が次第に硬くなっていたのだった。最初は「向こうも緊張しているのかな」と相変わらず、なんでも前向きに、ある意味自分に都合がいいように考える翔であったが、遅ればせながら、それがどうも違うようだと気づくようになった。


「どうしたんだろう」今朝も真央の態度に違和感があった。翔が挨拶をすると真央も「おはようございます」とは返してくれる。ただ、笑顔は一瞬で表情も硬い。さすがに、あからさまな拒絶反応ではないが、翔としては認めたくない現実が起こっていることには間違いなかった。自転車を漕ぐ足にも力が入らない。今日も、翔の姿を見て黄色い声をかけてくれる女性もいるが、上の空でいつものように嬉しいとも思わない。
「仕事のことで悩んでいるのかな」「彼女には特別大きな声で挨拶していたのが良くなかったのかな」「そういえば、この前、動物占いしたときに『夢見るロマンティストなコアラ』というのが良くなかったのかな」など、翔としては検討もつかない中、原因を考えれば考えるほど、真夏の空に急に広がる積乱雲のように、翔の心に暗雲が立ち込めていった。


あれこれと思いを巡らせているうちに市役所へ着いた。今日は議会の日ではなかったが、調べ物をしたくてやってきたのだった。受付の女性に挨拶し、エレベーターに乗り込むと議員控室がある階のボタンを押す。今日は珍しく誰も乗ってこない。まるで、世間が傷心の翔をそっとしているかのようだ。
エレベーターを降りると、翔が所属する会派の控室へ向かった。控室の入り口には、議員が在室しているかが分かるランプがある。入室の時に自分で釦を押すのだが、同じ会派で先輩議員高木克典のランプだけが点いていた。
「高木さん、来ているんだ。」議会開催中は、議員はもちろん登庁するのだが、そうでないときは不在の時がほとんどだ。だから、高木が来ていることは予想外だった。


高木は、翔より上の当選3期目の議員だ。年はちょうどひと回り上の42歳。国会議員の秘書を務めて市会議員になった。翔とは違い、たたき上げのタイプの議員だ。それ故に、人生経験も政治経験も豊富で、翔にとっては頼れる兄貴分の存在だ。
翔は、会派室に入る前、2,3度顔をパンパンと両手でたたいた。それは、さっきまでの不安な気持ちを振り払うためだった。何故ならば、高木は顔色を見て人の心を一瞬に見抜く能力があるからだった。いつも、顔には出していないつもりなのに、高木は翔に「何かあったのか?」と聞いてくる。それは、翔にとって助け船になり、有り難いことであるが、今日だけは、真央のことを高木に見抜かれたくなかった。


「よしっ」と気合を入れると、「おはようございます!」といつもより元気な声で会派室のドアを開けた。
「おー、おはよう」高木は、翔の顔を見てニッコリ微笑んだ。
「高木さん、来てたんですね。今日は何かあったんですか?」
「いや、ほら、例の、市長がごり押しして作った、小学校用の集中給食センターがあるだろ。あれの内覧会をやるんだけど、市議会から誰かってことで、結局、文教委員長の俺が行く羽目になったわけ。」
高木の口から小学校という言葉が出たときに、少しドキッとした翔であった。
「あー、あの無駄に豪華なやつですね。自分が一般質問でかなり市長を追及しましたけど、結局、市長が議会工作して押し切られちゃいましたね。」
「そーだよ。噂では、かなりの金が動いたみたいだけどな。でも、あの時は翔もよく頑張ったよな。するどい突っ込みだったよ。翔の親父さんの姿が蘇ったようだったよ。」
高木は、翔の父親と7年ほど議席を共にしていた。豪放磊落だった翔の父は、同じたたき上げの高木を特に目をかけていた。高木も翔の父親を慕い、翔の自宅にもよく出入りするほどだった。親父をよく知る高木からそう言われるのも初めてだったが、それは翔にとってかなりの褒め言葉であった。なぜならば、翔は親父を越えることはできないというくらい、政治家として尊敬の思いを持っていたからだった。
「じゃ、今日は市長のお披露目会ってとこですね、高木さん」
翔は、翔は照れくささを隠そうして、却って裏腹に市長を持ち上げることを言ってしまった。
「ただなー」高木は、ちょっと困った顔をした。
「どうしたんっすか」
 翔は、高木と二人きりでいると、議員と言うより兄と話している気分になってくる。
「いや、俺が懇意にしている新聞記者な。ほら、あの帝都新聞の。実は、大学の後輩なんだけど、今朝、内緒で至急会いたいって電話が来たんだよ。」
「何かありそうですね。」
「ああ。それも、かなり深刻な感じだったから」
「何時に会うんっすか」
「それが、午前中って言うんだ。けど、給食センターがあるからな。昼飯もそこで食べるみたいなんで、昼過ぎまで拘束されそうなんだよな。」
翔は小学校の給食センターと聞いて、さっきから何となく心を後押しするものが芽生えていた。
「高木さん、自分では代理になりませんかね。ちょうど自分も文教委員ですから。」
「そうかー。本来なら副委員長にお願いしなきゃいけないんだけど、実は、ちょうど視察で海外なんだよ。だから、行ってもらえると助かるよ」
まるで高木も、翔のその言葉を待っていたかのように準備された返答だった。
「議会事務局には、俺から言っておくから。9時半に委員長用の車が出るから。それに乗って行ってくれるか。」
 翔は、高木の提案をとてもありがたく感じた。


「ところで。」
案件を片付けてほっとした顔になったと思いきや、高木は、また少し神妙な顔で翔に話しかけてきた。
「何だか、深刻な顔をしてたけど、何かあったのか?」
翔は絶句した。やっぱり見抜かれていたんだと。
ただ、高木の、本当に心配そうな顔を見て、翔は、この歳になって恋愛の相談なんてと戸惑いもあったが、思い切ってそれまでの経緯を高木に話すことにした。
「なるほどー」ひとしきり話を聞いた高木は、2本の指を眉間にあてると、数秒、深刻な顔で考え込んだ。いつものことではあるが、高木がそんな顔をした時は、必ず妙案が出る。
翔は、反射的に期待した。
「あのな」今度は、何とも穏やかな顔になって話しかけてきた。
「恋愛ってのは八百屋と同じなんだよ」
「八百屋?」あまりに予想もしなかった言葉に翔は戸惑った。
「そう、八百屋。まあ宝石屋でも商売だったら何屋でもいいんだけど、最初っから、お客さんに無理矢理売りつけようとすればするほどお客は嫌がるよな。」
「はい。」
「それと同じで、恋も自分の気持ちをいきなり相手に押しつけようとしたら、相手は逃げていくんだよ。もちろん、例外もあるけど。例えば、相手が翔の熱狂的ファンの場合とか。」
「それは無いと思いますよ。」
「うん、そしたら、八百屋さんがまずすることは、お客さんにどんな野菜を売っているか、他の八百屋とどう違うのか、自分の店の良さを相手に伝わるように発信することだ。それで、買うか買わないかは相手に任せる。買ってほしいんですよーというアピールはするが、決して押し付けては駄目。相手が買ってくれる気持ちにすることが恋愛。押し売りしようとするのはストーカーだよ。」
「はー」翔は、高木のたとえ話になるほどと思った。ただ、ストーカーという言葉にはドキッとするものがあった。
「高木さん、自分は好きな気持ちを押し売りしようとしていましたよ。」
翔は、内省の意味も込めて、正直な気持ちを高木に吐露した。


「要は、まず、知らない段階から認知してもらう。次に、興味を持ってもらう行動をする。マーケティングの理論だよ。」
MBA(経営学修士)を持っている高木らしく、専門知識を恋愛に応用していたのだった。しかし、そこまで翔は理解していなかった。
「なるほど―、だから、恋は駆け引きって言うんですね―。」
「ちょっと、違うけどな。」
そんな見当違いの翔の反応に、高木は軽く肩を落とすリアクションをした。そして、言葉を続けた。
「ただな、これは俺の勘だけど。多分、その先生はおまえのことが嫌いではないような気がする。しかし、恋愛をするような心のスペースがない可能性が高い。そこに埋まっているものが何かは分からない。仕事に没頭しているのか、家庭の悩みがあるのか、ひょっとしたら恋愛中なのかもしれない。そもそも、恋は心が空になって淋しさを感じた時に始まることが多いんだ。だから心が空いた時、その扉の前に翔にスタンバイしていることを相手に意識してもらっておくことも大切なんだな。」
「なるほど―。高木さんは、恋愛のプロフェッショナルですね―。」
感心しきったように翔は言った。
「まあ、いずれにしても、相手の気持ちをすべて受け止めてあげるくらいの気概を持って、相手に接触していくこと。男は度胸だよ。」
翔におだてられて気分が良かったのか、高木は得意げな目になって言った。そして、
両膝を叩きすっと立ち上がった。
「じゃー、内覧会、悪いけどよろしくな。」
高木は、軽くウインクして上着を取ると、肩にかけ颯爽と部屋を出ていった。高木の男気を改めて感じた翔は、高木に内心のすべてを打ち明けたことに微塵の後悔もなくなっていた。そして、高木の言葉で恋愛への考え方が変わったと思った。
「すべてを受け止めるか―。」
そうつぶやくことで、翔は更に自分が男として成長したことも実感するのだった。

控室の中は、そんな充実感に浸り微笑む翔がいたのだが、その一方で、部屋から出た高木の顔は再び険しい顔になっていた。それは、堀内の深刻な電話がこれから起こるであろう事の重大さを高木が予感していたからだが、堀内がもたらす事件と翔と真央の出会いも絡み合って、それが高木の人生を大きく左右する事になろうとは、さすがの高木も知る由もなかったのだった。

第1章 第3節 二人の女子会

5月の連休が明けた日の夜、一条真央は職場の先輩教師の米倉恵に誘われて食事に行った。米倉は、40歳を過ぎてはいるが、元ミス日本だったほどの美貌の持ち主で、英語も堪能で小学校教師としては異色の存在だ。それだけでなく、破天荒な性格も相俟って、校長や教頭からは特に目を付けられていたが、竹を割った性格で面倒見がいいため、同僚や後輩教師には人気がある。
真央が今の学校に移動してきたときも、米倉から声をかけてきて学校を案内してくれた。親切な米倉に真央はとても好意を寄せるようになり、すぐに二人は仲良くなって行った。それから、二人で食事に行くようにもなったが、真央にとってはそれが唯一の息抜きになっていた。真央から誘うことはなかったが、今日は一人で食事をしたくないと思っているときに、米倉はそれを察したかのようにタイミングよく食事に誘ってくれる。
今日、真央は、連休中はずっと一人で家にいたためか人恋しくなり、たまには自分から誘おうかと思っていた矢先、「真央ちゃん、今晩、二人女子会する?」といつもの笑顔と誘い文句で、米倉が誘ってきてくれた。真央は二つ返事で了解した。


外がまだ薄明るい中、二人は駅前のイタリアンレストランにいた。この店は、カジュアルな作りで、値段もリーズナブルなので女性に人気がある。今日も、真央たちのほかに数組、女子会らしきグループがいた。窓際の席に座った二人は、それぞれお好みのカクテルを持ち乾杯した。
「恵先輩、今日も誘っていただいてありがとうございました。実は、今日、ちょうど私から誘おうと思っていたんですよ。」
「あら、そうなの。真央ちゃんから誘うとするなんて珍しいね。」
「はい。タイミングばっちりでした。でも、本当は、いつも女子会したいなーって思っていたら、必ずっていうくらい恵先輩が誘ってくれているんですよ。」
「だって、私、真央ちゃんの心の声が聞こえるんだもの―。」
米倉は、すこしおどけた顔と真剣な顔が入り交ざったような表情で話すと、きれいで大きな口を開けて笑った。素敵な笑顔だった。真央もつられて笑ったが、米倉が「心の声が聞こえる」と言った言葉にドキリとした。それは、真央は両親が亡くなってからずっと、人と本音で話すことを避けてきたのだが、そのことを見抜かれたと思ったからではなかった。逆に、初めて心を開いて話せる人が現れたのではという喜ばしい衝撃からだった。それが、なぜ米倉に対しそう思ったか理由は見つからなかったが、真央の本能のような感性が後押しするような感じだった。


真央は、その日の夜、いつもより饒舌になった。校則の事やPTA内での噂話、授業の段取りのやり方や、生徒との面白いやり取りなど、次から次に話題が出て来た。米倉は、時にはうなずきながら、時には自分が知っていることを織り交ぜながら真央の話の聞き役になった。そして、真央は職場の男性教師に映画に誘われたことも話した。
「恵先輩、こんな時、相手を傷つけずに断る方法はないんですかね。」
「真央ちゃんは、明るいし可愛い顔をしているから、寄ってくる男も多いのよ。それをまともに受けていたら大変だよ。断るのは正解よ。」
「だって、恵先輩は遠慮ないですからね。今日だって、教頭に『それはセクハラですよ、教頭』ってはっきり言われていたじゃないですか。私は、そんな勇気がないんですよ。」
「何言っているのよ、真央ちゃん。」
少し真面目な顔で米倉が話し始めた。
「あなたは、責任感も強く、生徒にも好かれているじゃない。まだ、うちの学校に来て間もないけど、父兄からの評判もいいみたいよ。私には真似できない。それがあなたの個性。素晴らしいところ。私も良いところがあるし、あなたも良いところがある。それでいいのよ。」
優しく言い放つ、そんな米原の言葉に、真央はとても勇気づけられた気持ちになった。感謝の気持ちを言葉にしようと思ったが、うまい言葉が見つからなかった。そんな様子を見てか、米倉が言葉を続けた。
「気遣いが過ぎるのもあなたらしさ。真央は、対人恐怖症が高いのよ。」
そういうと、飲みかけのハイボールをぐっと飲み干した。
「恵さん、それって、対人感受性のことじゃないですか?」
「だったね。」
きょとんとした顔で真央の顔を見つめた米倉だったが、次の瞬間、二人は大笑いした。
ひとしきり笑ってから真央は思った。「恵さんはわざと間違えて、私を和ませようとしたんじゃないか。」真央は、米倉が相手の気持ちを瞬時に汲み取り、機転を利かせて対処できる頭がいい女性だと改めて感心した。真央も、飲みかけていたカシスオレンジを、米倉の真似をするかのように一気に飲み干してグラスをトンと置いた。それを見て、米倉は噴出して笑った。真央も合わせるように笑った。それは、真央にとっても安らげる時間になっていた。
しかし、飲み干したはずのグラスの底に、わずかに残っているカシスオレンジを見たとき、真央の心の中にも、話したくてもまだ話すことができない何かがあることに気づいたのだった。

第1章 第2節 私は一条真央

 私は、一条真央。小学校の教師だ。学生時代はアナウンサー志望だったが、テレビ局はどこも受からず、悩んだ末、母が教師であったこともあって、この町の教員試験を受けた。熱望した職ではなかったが、採用の通知を頂いたので、気持ちを一新し教職に人生を捧げることにした。
教師生活は8年目になるが、この4月に今の小学校に転勤になって、2年生の担任をしている。低学年の子供は、まだ幼さが残っていて思いもよらない行動をする。独身で子供もいない私だけど、「真央ちゃん、真央ちゃん」となついてくる純粋無垢な子供たちは我が子のように可愛いし、子供たちと話していると却って私が癒される。願望だった女子アナにはなれなかったが、最近は、教職の方が私にあっていたのではないかとさえ思うようになって来た。
年齢は、今年30歳になった。もう30代かとも思うし、まだ30歳とも思う。ただ、結婚願望は全くない。それは、たぶん、私が両親を亡くしてから家族を欲しいと思わなくなったからだろう。その一方、周りから、特に男性には30過ぎの独身女性は話題にしやすいのだろうか、時々、年齢を話題にして突っ込んでくる。昨日も教頭が「一条先生、まだご結婚はー?」なんて平気で聞いてくる。
それでも私は、「教頭先生、どなたか紹介してくださいよー。」とニコニコしながら返事をする。一般的にはセクハラになるのだろうが、事を荒立てようとは思わない。上司だから泣き寝入りしようというわけでない。それは、私が頑(かたく)なに母の教えを守っているからだ。厳しかった半面とても優しい人でもあった母は、生前、私にいろんな事を教えてくれた。
「真央がお嫁入りしたとき、先方様に恥ずかしい思いをさせてはだめよ。」と、母自身が祖母から教わったということをよく私に話してくれた。そのひとつに、「女は明るいのが一番。ブスッとしていたらブスになるし、人は近づかないのよ。人が寄ってくるところに運もお金も寄ってくるの。だから、真央も、辛くても人前では明るく、元気でいるのよ。人となりは大切だから、人からどう見られているか、いつも考えて行動しなさい。それと、人間は四六時中苦労するようにできているから、受け取り方を前向きに考えたほうがいい。それだけで、人生が天と地ほど変わってくるからね。」ということがあった。
それ故に、辛いことがあっても、人前では努めて笑顔でいようとするし、嫌なことを言われてもムッとした顔をしないように気を付けている。母の教えを忠実に実行してきたため、手前味噌だが職場の人間関係でもめたことは一度もない。


ただし、もちろん私も生身の人間だから、一日中明るい気持ちでいるわけではない。むしろ、辛いときのほうが多い。そんな時は、できるだけ心のバランスを取る事をする。意外と思われるかもしれないが、私の一番のストレス発散は漫才だ。一人漫談も好きだし、グループでやるコントも大好きだ。テレビ番組は欠かさず録画し、足りないときはレンタルしてくるときもある。疲れたなーと思うとき、部屋の明かりを消しひとりお笑いを見る。そんな時は、自分が何にも考えず、ただ無の状態になっていたことが後から分かる。しかし、耐えようもない寂しさに襲われるときは、お笑いで紛らわすことはできない。そんな時は、ペットのハッピーの存在が私を助けてくれる。


ハッピーは私が教師になって間もないころ、帰り道にあったペットショップで売りに出されていた。ショウウインドウに、段になって置いてある檻のひとつにミニチュアダックスフンドのハッピーがいた。他にもワンちゃんたちはいたが、ハッピーだけがじっと私を見ていた。その愛らしく寂しげな目が自分に重なった。この子も私と一緒で天涯孤独なのだ、そう思ったらいたたまれなくなり、お店に入って抱かせてほしいと頼んだ。生まれてまだ3ヶ月だったが、檻の中から出された瞬間、店内を元気よく走り回り1周したかと思ったら私の膝の上に飛び込んできた。そして、さっきと同じ目で私の顔をじっと見上げた。何か運命めいたものも感じた次の瞬間、店員さんに「この子ください。」と言っていた。ちょうどボーナスが出たばかりだったので、お店に支払うお金は問題なかったが、その時の住まいがペット禁止だったので、貯金を使い、次の日には引っ越し先を決め、1週間後にはハッピーを迎えに行くことができた。それ以来、8年の間、私の唯一の家族でいてくれている。
そんなハッピーとは毎晩同じベッドで寝ている。そして、とめどなく押し寄せてくる悲しみに耐えられないとき、布団の中で涙を流す。そんな私の気持ちを察してくれるのか、ハッピーは頬を伝う私の涙を優しく舐めてくれる。そして、私は誰にも言えない自分の思いをハッピーに話したりする。もちろん、ハッピーが答えてくれるわけはないが、私の言っていることを理解しているようにじっと聞いてくれる。それだけでも、精神的に追い詰められた私は救われる。おかげで、心のバランスを取ることができている。だから、私が、両親の後を追わずに生きていくことができているのも、ハッピーのおかげだと思っている。


職場の人間関係でもめたことは一度もないと言ったが、人付き合いの対応で困ることが度々ある。それは、男性からの誘いだ。先日も、職場の独身の先生から映画の誘いを受けた。「いきなり映画?!」とも思ったが、用事があるという苦しい言い訳で逃げた。しかし、相手が悲しげな表情を浮かべるのを見ると、とても申し訳ない気持ちにもなる。映画くらい付き合ってもいいんじゃないかとも思うが、やはりその先のことを考えると二の足を踏んでしまう。というのも、私が男性とお付き合いすることにトラウマのようなものがあるからだ。
それは、大学1年生の時だった。テニスサークルに入った私は、しばらくすると3年生の先輩から交際を申し込まれた。びっくりしたが、すごく頼れる先輩だったのでお付き合いすることにした。学校の授業とアルバイトで忙しく頻繁には会えなかったが、何度かデートを重ねるうちに恋人同士の雰囲気になってきた。ただ、それと同時に、私の家族のことも聞くようになってきた。私は、大学の友達には両親を亡くしていることは言ってなかった。それは、いろいろと詮索されるのを疎ましく思ったし、両親の死を現実の事として受け止めることができていなかったので、話すと相手が土足で心の中に入って来るような気がしたからだ。だから、結局、その先輩にも本当のことは言わなかった。正直に言うと、すべてを話せば、私の心をすべて委ねてしまう気がして怖かったからだと思う。それでも、彼のことは好きだったが、そんな気持ちとの狭間でどういうふうに接していいのか、次第に心の中で苦慮するようになっていた。
 私が2年生になっても交際は続いていた。夏休みに泊りで海に行こうと誘われた。授業料や生活費を親に頼れない私は、あまりバイトを休みたくなかったが、好きでもあったので誘いを受けることにした。彼が兄に借りてきたという車に乗って湘南へ向かった。海の青さがまぶしいくらいに美しかった。沈みゆく夕日を眺め、たわいもない話をした。とても楽しかった。そしてその夜、私は彼に体を許した。
海から帰ってきて、またバイト三昧の日々が続いたが、秋になり学校が始まったある日、彼がどうしても会いたいということで、バイトを休んだ。その日の夜、すごくおしゃれなフランス料理のレストランで食事をした。そして、彼からプロポーズをされた。彼は、就職も決まったので、卒業したら結婚して欲しいとのことだった。びっくりしたが、正直、うれしかった。ただ、少し考えさせてほしいと言って、その日の夜は別れた。
 家に帰り、一人になっていろいろなことを考えた。私は卒業まで2年残っているから、大学に行きながら主婦をするのかな、バイトと両立するのかな、子供ができたらどうしよう、など考えているだけで楽しい気分になった。
しかし、両親がいないことをどう話そう、と考え始めたら、なぜか、結婚することにものすごい恐怖感を感じた。しかし、当時はそれがなぜなのかを深く考えきれなかった。ただただ、家庭を持つことを私の心が遠ざけようとしていた。今思えば、愛する人を持つことよりも、愛する人を失った時のトラウマがあまりにも強すぎたため恐怖感を感じたのだろう。
結局、私は彼のプロポーズをお断りした。その時の、彼の驚愕しすぐに落胆していく顔が忘れられない。どうしてもだめなのか、と聞かれたが、学生結婚はしたくないと嘘をつき、その場を離れた。帰りすがり、彼の悲しい顔がまぶたの裏に焼き付いてとても辛かったが、同時に、私を襲っていた恐怖感がスッと消えたことにも気づいた。そして、それ以来、私は恋をすることに心の封印をした。