朝の街頭活動を終えると、小沢翔は、その足で市役所の議員控室に向かった。議員になってこれと言った運動をすることはなかったが、元々スポーツマンだった翔は、移動にはほとんど自転車を使う。今日も、自転車にまたぎペダルをこぎ出す。桜はすっかり散ってしまったが、春の空気を切って進む翔の顔に心地よい風が吹き抜ける。
もともと甘いマスクの翔は、日に焼けた浅黒い顔が更に「イケメン」を作り出す。スポーツタイプの自転車で町を駆け抜けるイケメン議員に声をかける人も増えてきたし、町を歩く女性も、議員とは知ってか知らずか、アイドルに会ったかのような反応を示すこともある。
「これも良い選挙運動だな」町の人たちの反応をみると、翔はそんなことを思ったりするようになった。そもそも、好きなサッカーをする時間がない為、運動不足にならない為に始めた自転車通勤だった。それが、いつしか良い選挙運動になっていることに、気を悪くしない政治家はいないはずだ。翔が、そう考えるのも不思議ではない。
しかし、翔はそんなふうに思った後で、純粋な思いで始めた事が打算な考えに変わって行くことを許している自分に、嫌悪感を覚えることも度々だった。無くなった父親譲りの実直で正義感が人一倍強い翔の性格が、そう思わせているのかもしれない。
「最近、俺ってダメだな―」そんな独り言も良く言うようになった。
今日も、風を感じながらも「俺って、ダメだなー」とつぶやいていた。しかし、今日の独り言は、いつもの自己嫌悪と全く原因が違っていた。それは真央に対してのものだった。
朝、度々顔を合わせるようなり、最初は、愛嬌よく挨拶を返してくれていた真央だった。翔は、真央の笑顔に一瞬に魅せられた。そして、自分に向けられる笑顔が、他の人のより一段と愛嬌があると感じ、いや、そう思いたかったのだろう、「この娘は俺に気がある」と勝手に決め付けていた。淋しさを紛らわすための朝の活動が、彼女の笑顔が見られるというわくわく感と、初恋の時以来の胸がキュンとなる思いもあって、積極的思考へと変容していった。
今度は、「おほようございます」以外の言葉をかけてみよう、そして、どうやってデートの約束まで持っていこうなど、めくるめく思いを馳せるようになっていた。しかし、翔の妄想が広がって行くに反比例するように、最近、何故か真央の態度が次第に硬くなっていたのだった。最初は「向こうも緊張しているのかな」と相変わらず、なんでも前向きに、ある意味自分に都合がいいように考える翔であったが、遅ればせながら、それがどうも違うようだと気づくようになった。
「どうしたんだろう」今朝も真央の態度に違和感があった。翔が挨拶をすると真央も「おはようございます」とは返してくれる。ただ、笑顔は一瞬で表情も硬い。さすがに、あからさまな拒絶反応ではないが、翔としては認めたくない現実が起こっていることには間違いなかった。自転車を漕ぐ足にも力が入らない。今日も、翔の姿を見て黄色い声をかけてくれる女性もいるが、上の空でいつものように嬉しいとも思わない。
「仕事のことで悩んでいるのかな」「彼女には特別大きな声で挨拶していたのが良くなかったのかな」「そういえば、この前、動物占いしたときに『夢見るロマンティストなコアラ』というのが良くなかったのかな」など、翔としては検討もつかない中、原因を考えれば考えるほど、真夏の空に急に広がる積乱雲のように、翔の心に暗雲が立ち込めていった。
あれこれと思いを巡らせているうちに市役所へ着いた。今日は議会の日ではなかったが、調べ物をしたくてやってきたのだった。受付の女性に挨拶し、エレベーターに乗り込むと議員控室がある階のボタンを押す。今日は珍しく誰も乗ってこない。まるで、世間が傷心の翔をそっとしているかのようだ。
エレベーターを降りると、翔が所属する会派の控室へ向かった。控室の入り口には、議員が在室しているかが分かるランプがある。入室の時に自分で釦を押すのだが、同じ会派で先輩議員高木克典のランプだけが点いていた。
「高木さん、来ているんだ。」議会開催中は、議員はもちろん登庁するのだが、そうでないときは不在の時がほとんどだ。だから、高木が来ていることは予想外だった。
高木は、翔より上の当選3期目の議員だ。年はちょうどひと回り上の42歳。国会議員の秘書を務めて市会議員になった。翔とは違い、たたき上げのタイプの議員だ。それ故に、人生経験も政治経験も豊富で、翔にとっては頼れる兄貴分の存在だ。
翔は、会派室に入る前、2,3度顔をパンパンと両手でたたいた。それは、さっきまでの不安な気持ちを振り払うためだった。何故ならば、高木は顔色を見て人の心を一瞬に見抜く能力があるからだった。いつも、顔には出していないつもりなのに、高木は翔に「何かあったのか?」と聞いてくる。それは、翔にとって助け船になり、有り難いことであるが、今日だけは、真央のことを高木に見抜かれたくなかった。
「よしっ」と気合を入れると、「おはようございます!」といつもより元気な声で会派室のドアを開けた。
「おー、おはよう」高木は、翔の顔を見てニッコリ微笑んだ。
「高木さん、来てたんですね。今日は何かあったんですか?」
「いや、ほら、例の、市長がごり押しして作った、小学校用の集中給食センターがあるだろ。あれの内覧会をやるんだけど、市議会から誰かってことで、結局、文教委員長の俺が行く羽目になったわけ。」
高木の口から小学校という言葉が出たときに、少しドキッとした翔であった。
「あー、あの無駄に豪華なやつですね。自分が一般質問でかなり市長を追及しましたけど、結局、市長が議会工作して押し切られちゃいましたね。」
「そーだよ。噂では、かなりの金が動いたみたいだけどな。でも、あの時は翔もよく頑張ったよな。するどい突っ込みだったよ。翔の親父さんの姿が蘇ったようだったよ。」
高木は、翔の父親と7年ほど議席を共にしていた。豪放磊落だった翔の父は、同じたたき上げの高木を特に目をかけていた。高木も翔の父親を慕い、翔の自宅にもよく出入りするほどだった。親父をよく知る高木からそう言われるのも初めてだったが、それは翔にとってかなりの褒め言葉であった。なぜならば、翔は親父を越えることはできないというくらい、政治家として尊敬の思いを持っていたからだった。
「じゃ、今日は市長のお披露目会ってとこですね、高木さん」
翔は、翔は照れくささを隠そうして、却って裏腹に市長を持ち上げることを言ってしまった。
「ただなー」高木は、ちょっと困った顔をした。
「どうしたんっすか」
翔は、高木と二人きりでいると、議員と言うより兄と話している気分になってくる。
「いや、俺が懇意にしている新聞記者な。ほら、あの帝都新聞の。実は、大学の後輩なんだけど、今朝、内緒で至急会いたいって電話が来たんだよ。」
「何かありそうですね。」
「ああ。それも、かなり深刻な感じだったから」
「何時に会うんっすか」
「それが、午前中って言うんだ。けど、給食センターがあるからな。昼飯もそこで食べるみたいなんで、昼過ぎまで拘束されそうなんだよな。」
翔は小学校の給食センターと聞いて、さっきから何となく心を後押しするものが芽生えていた。
「高木さん、自分では代理になりませんかね。ちょうど自分も文教委員ですから。」
「そうかー。本来なら副委員長にお願いしなきゃいけないんだけど、実は、ちょうど視察で海外なんだよ。だから、行ってもらえると助かるよ」
まるで高木も、翔のその言葉を待っていたかのように準備された返答だった。
「議会事務局には、俺から言っておくから。9時半に委員長用の車が出るから。それに乗って行ってくれるか。」
翔は、高木の提案をとてもありがたく感じた。
「ところで。」
案件を片付けてほっとした顔になったと思いきや、高木は、また少し神妙な顔で翔に話しかけてきた。
「何だか、深刻な顔をしてたけど、何かあったのか?」
翔は絶句した。やっぱり見抜かれていたんだと。
ただ、高木の、本当に心配そうな顔を見て、翔は、この歳になって恋愛の相談なんてと戸惑いもあったが、思い切ってそれまでの経緯を高木に話すことにした。
「なるほどー」ひとしきり話を聞いた高木は、2本の指を眉間にあてると、数秒、深刻な顔で考え込んだ。いつものことではあるが、高木がそんな顔をした時は、必ず妙案が出る。
翔は、反射的に期待した。
「あのな」今度は、何とも穏やかな顔になって話しかけてきた。
「恋愛ってのは八百屋と同じなんだよ」
「八百屋?」あまりに予想もしなかった言葉に翔は戸惑った。
「そう、八百屋。まあ宝石屋でも商売だったら何屋でもいいんだけど、最初っから、お客さんに無理矢理売りつけようとすればするほどお客は嫌がるよな。」
「はい。」
「それと同じで、恋も自分の気持ちをいきなり相手に押しつけようとしたら、相手は逃げていくんだよ。もちろん、例外もあるけど。例えば、相手が翔の熱狂的ファンの場合とか。」
「それは無いと思いますよ。」
「うん、そしたら、八百屋さんがまずすることは、お客さんにどんな野菜を売っているか、他の八百屋とどう違うのか、自分の店の良さを相手に伝わるように発信することだ。それで、買うか買わないかは相手に任せる。買ってほしいんですよーというアピールはするが、決して押し付けては駄目。相手が買ってくれる気持ちにすることが恋愛。押し売りしようとするのはストーカーだよ。」
「はー」翔は、高木のたとえ話になるほどと思った。ただ、ストーカーという言葉にはドキッとするものがあった。
「高木さん、自分は好きな気持ちを押し売りしようとしていましたよ。」
翔は、内省の意味も込めて、正直な気持ちを高木に吐露した。
「要は、まず、知らない段階から認知してもらう。次に、興味を持ってもらう行動をする。マーケティングの理論だよ。」
MBA(経営学修士)を持っている高木らしく、専門知識を恋愛に応用していたのだった。しかし、そこまで翔は理解していなかった。
「なるほど―、だから、恋は駆け引きって言うんですね―。」
「ちょっと、違うけどな。」
そんな見当違いの翔の反応に、高木は軽く肩を落とすリアクションをした。そして、言葉を続けた。
「ただな、これは俺の勘だけど。多分、その先生はおまえのことが嫌いではないような気がする。しかし、恋愛をするような心のスペースがない可能性が高い。そこに埋まっているものが何かは分からない。仕事に没頭しているのか、家庭の悩みがあるのか、ひょっとしたら恋愛中なのかもしれない。そもそも、恋は心が空になって淋しさを感じた時に始まることが多いんだ。だから心が空いた時、その扉の前に翔にスタンバイしていることを相手に意識してもらっておくことも大切なんだな。」
「なるほど―。高木さんは、恋愛のプロフェッショナルですね―。」
感心しきったように翔は言った。
「まあ、いずれにしても、相手の気持ちをすべて受け止めてあげるくらいの気概を持って、相手に接触していくこと。男は度胸だよ。」
翔におだてられて気分が良かったのか、高木は得意げな目になって言った。そして、
両膝を叩きすっと立ち上がった。
「じゃー、内覧会、悪いけどよろしくな。」
高木は、軽くウインクして上着を取ると、肩にかけ颯爽と部屋を出ていった。高木の男気を改めて感じた翔は、高木に内心のすべてを打ち明けたことに微塵の後悔もなくなっていた。そして、高木の言葉で恋愛への考え方が変わったと思った。
「すべてを受け止めるか―。」
そうつぶやくことで、翔は更に自分が男として成長したことも実感するのだった。
控室の中は、そんな充実感に浸り微笑む翔がいたのだが、その一方で、部屋から出た高木の顔は再び険しい顔になっていた。それは、堀内の深刻な電話がこれから起こるであろう事の重大さを高木が予感していたからだが、堀内がもたらす事件と翔と真央の出会いも絡み合って、それが高木の人生を大きく左右する事になろうとは、さすがの高木も知る由もなかったのだった。