Sweet Memories 2006

風がさーっと吹いて桜の花びらが舞うと、
風が優しく思い出を語りかけてくるようだ。
いつも不思議に思う。
なぜ春の風には、ほんのりとした甘い香りがするのだろう。
3年前もそうだった。
それは、自分の人生が激変していく時の流れの中、
何年たっても変わらない。

第1章 坊ちゃん先生の恋 第1節 私は小沢翔

風がさーっと吹いて桜の花びらが舞うと、風が優しく思い出を語りかけてくるようだ。いつも不思議に思う。なぜ春の風には、ほんのりとした甘い香りがするのだろう。

3年前もそうだった。それは、自分の人生が激変していく時の流れの中、何年たっても変わらない。



3年前



 私は、小沢翔。関東近郊の中核都市に住む市議会議員だ。今年、30歳になる。最近は議員の6割は世襲議員らしいが、私もご多分に漏れず2世議員だ。一方、私の親父はたたき上げでこの町の市議会議員になり6期目を務めていた。しかし、私が25歳の時、居眠り運転の大型ダンプと衝突し、交通事故で急逝してしまった。


親父は、戦後、満州からの引き上げで、私の祖母に当たる親父の母親と共に日本へ帰ってきた。親父の父親は関東軍の高級将校だったらしいが、終戦と同時に蒋介石の国民党軍に暗殺された。親父は、その頃のことを酔った時、何度か話したことがある。

子供のころ、中国内の豪邸に住んでいた親父は、ある日の昼、自宅のプールから上がるとすぐ異変に気が付いたらしい。いつもは、邸内にいる中国人の使用人たちが、プールから上がると、さっとタオルを持ってきて親父の体を拭いてくれた。まさに王様の気分だったそうだ。ところが、その日に限って、プールから上がっても使用人たちは煙草をふかし、そ知らぬ顔をして雑談に耽っていたという。

まだ幼かった親父だったが、瞬時に日本が戦争に負けたことを感じ取ったという。


それから、親父の母親は、父の部下の手助けもあって、身分を隠し命からがら引き揚げ船に紛れ込み、幼かった親父の手を引き引き、長崎県佐世保市の引き揚げ地にたどりついた。その後、この町に移り住み、母親はそれこそ寝る間も惜しみ昼夜働いて親父を育てた。しかし過労がたたり、親父が中学を卒業するころに息を引き取ってしまった。

母親の死後、天涯孤独の身になった親父は泣く泣く進学を断念し、土建屋に住み込み、昼はがむしゃらに働き、夜学に通い、建築士の資格を取って二十歳の時には独立をするに至った。そんな環境で育ってきた苦労人の親父は、誰の目からしても、豪放磊落(ごうほうらいらく)が服を着たような魅力的な人物だった。

「子持って知る親の恩」ということわざがあるが、私の場合は親を亡くして、親父の優しさに思いを巡らせることがある。先日もそうだった。先輩議員に誘われて寿司屋に行った。板前さんが、ぽんと目の前に置いてくれた握り鮨を見た時、こんなことを思い出した。


私が子供のころ、酔って帰ってきた親父は、時折、握り寿司をお土産に買って来て食べさせてくれた。当時はあまり夕飯に上がることもなかったので、私は、親父が酒を飲んで帰ってくることが、とても嬉しかった。「おいしい」と口を一杯にして食べる私を見て、上機嫌だった親父の顔を今でも鮮明に覚えている。


そんなことに思いを巡らせる時、決まって私は一人の世界に入り込んでいる。自分一人の時はいいが、誰かと一緒の時は、度々相手を驚かせる。

「おい、翔。どうしたんだ?」

今回も先輩議員が、一人物思いに耽っている私の顔を覗き込んだ。はっと、我に返ると、寿司を手に持ったまま固まっている板前さんが目に入った。そんな周囲も凍らせるほどマイペースな性格の私だが、それは、私が育ってきた家庭環境にも因るのかなと思ったりもする。


振り返ると、私が幼いころには、親父が始めた建設会社は軌道に乗り、この町でもトップクラスの土建屋として、多くの社員を抱えるまでになっていた。子供心にも覚えているが、広かった自宅にはいつも多くのお客が出入りしていた。私が一番うれしかったのは、お正月の来客だ。「ぼっちゃん」と、来る客、来る客がお年玉をくれた。

私の母はしつけに厳しい人だったので、もらったお年玉は全部母が没収し管理していた。しかし、それでも、ちやほやと親切にしてくれる大人たちの行為は、幼い私にはとっても心地よかった。苦労人の親父の子ではあったが、ひとりっこで経済的には何不自由ない豊かな家庭で育ち、周囲からちやほやされて育った私は、自他共に認める「おぼっちゃま」であった。そんな周りに気を使うことない環境の中で幼少期を過ごしたことが、マイペースな私の性格の原因なのだろう。

ただ、「おぼっちゃま」というのは、子供のころは気楽に過ごすことができるのだろうが、大人になって社会に投げ出されたとき、人並み以上にいろんな苦労に遭遇することも実感した。特に、周囲への心遣いの不足に因る対人関係での失敗は多かったと思う。


苦い思い出のひとつに、大学生時代の出来事がある。1年生の時、合コンで出会った3つ年上の女性がいた。看護婦をしていて、姉御肌の、すごくきれいな人だった。初めての大人っぽい恋愛に心がときめいた。付き合い始めてしばらくした頃、手料理をごちそうしてくれるということで自宅に呼ばれた。ひとつの空間に二人きりという初めての設定にドキドキしていたし、食いしん坊の私は、どんな料理を作ってくれるのだろうという高揚感もあった。

最初、無農薬ほうれん草の上にカリカリに焼いたベーコンをのせ、自家製というドレッシグをかけたサラダが出てきた。彼女の手料理が食べられるということで、その日は朝から何も食べずにいたのでお腹も空いていたし、盛り付けもきれいでとても美味しそうに見えたので、つい手を付けてしまった。美味しかった。今でも覚えている。気が付くとほとんど食べていた。彼女が次の料理を持ってきたとき、悲劇が起こった。

「何、先に食べているの―!」

美しい顔が鬼に見えた。

「待って一緒に食べるのが常識でしょ!」 そういった彼女の顔は、怒りからあきれ顔に変わって行った。

「しまった」と思っても遅かった。ひとまず詫びたが、それから、何とも気まずい雰囲気での食事が始まった。そして、その日以降、会ってくれなくなってしまった。

「厳しいなー」とも思ったが、その後の人生で、ものすごい教訓になったのは良かったのかもしれない。


こんな「おぼっちゃま」な私であるが、それを親の躾のせいなどと思ったことは一度もない。それどころか、両親から学ばせてもらったことの方が、私が生きていく上で大きな財産になっているととても感謝している。


特に、私の人間形成に大きな影響を与えたのが、苦労人の親父の言葉だった。たまに、二人で話す機会があると親父は「学校はどうだ」とか「友達は大切にしているか」とか、一通り聞いた後で、親父の人生哲学のようなことを話してくれた。

一番印象深く残っていることは、私が大学受験の勉強をしているときだった。親父が部屋に入ってきて話してくれた。少し、赤ら顔だった親父は、その時も一通りの近況を聞くと、真剣な顔で話し始めた。

「翔、俺は経験しなかったが、受験勉強ほど過酷なレースはない。トップを狙うほどみんな命を削る思いで勉強する。辛いけど、何くそという意地で頑張る。その意地が大事なんだ。意地というのは人間が生きていく上での背骨だ。勉強だけではないけど、大人になる前に意地を持って勉強した者は、その時にしっかりした背骨ができる。だから、今こそ意地を大切にするのだよ。」

摩周湖の水面(みなも)のように深く澄んだ大きな瞳で、じっと私を見て話す親父はとても迫力があった。しかし、一通り話し終えると、にっこりと満面の笑みを私に向けてくれた。その笑顔は、とても優しく、心の奥底まで暖かくなってくるような慈愛に溢れた笑顔だった。

親父のたった一言のアドバイスだったが、その後、私はがむしゃらに受験勉強に取り組んだ。そして、みごと難関の志望大学へ合格することができた。合格の報告をしたときの親父が見せたとても嬉しそうな顔は、亡くなった今となっては、切ないくらいに良い思い出として残っている。


 それから、大学へ進学した私は、サッカー部へ所属した。あのような辛い恋愛もあったが、いい友人に恵まれ青春を謳歌した。理系だったので卒論の実験は大変だったが、無事卒業でき、大手の鉄鋼会社へエンジニアとして入社することができた。両親も喜んでくれたが、この時は親父より母親の方がとても嬉しそうだった。その理由を知ったのも、親父が亡くなってからだった。

 私自身、ひょっとしたら親父の稼業を継ぐのかなぐらいの軽い気持ちはあったが、就職活動する時に、建設関係の会社を探そうと思ったことはまったくなかった。母は、土建屋の大変さが分かっていたせいか、家業を継がせようとはあまり思っていなかったらしい。しかし、親父としては、稼業を継いで欲しかったようで、その為に、関連のある建設業界へ進んで欲しかったらしい。親父が急逝し、結局会社を整理することになった時、親父を慕っていた社員さんがそのことを話してくれた。後になって知り、進学の時、相談くらいすればよかったと親父にとても申し訳ない気持ちになった。

そんな心遣いに欠ける私だが、それでも、失敗を学習し、齢を重ねるに連れて自己嫌悪に陥る頻度は減ってきたと思う。ただ、まったく無くなったわけではない。最近、自己分析のセミナーで学んだのだが、要するに、自分はコンピテンシーでいう対人感受性にまだまだ欠けているという事が分かった。



「坊っちゃん先生、おはよう」

おばあちゃんが、いつものように挨拶してくる。市議会議員になった私は、時間があると、近所の小学校の前の横断歩道で、交通安全の街頭活動をする。本当は選挙の為の偽善活動と陰口を言う人も少なくはないが、私も敢えてその事は否定しない。ただ、人身事故の7割近くが横断歩道で起こっているという事を知ったことと、本当は早朝に何もすることなく一人部屋にいると寂しいことから、朝の街頭活動を始めた。

寂しいことには理由がある。親父が亡くなる5年前には、母がすい臓がんで他界した。それから、親父はずいぶん気落ちしていたが、その後親父が亡くなり、今度は私が天涯孤独の身になってしまった。

それまでは、サラリーマン生活が板に付き、独身寮での生活にも慣れ、友人もたくさんできていたのだが、親父の死後、支援者たちの強い要請もあり、脱サラして故郷へ帰ってきた。しかし、親父の会社は、司令塔が急にいなくなったことで、あっという間に資金繰りが悪化し、あまりにも簡単に倒産してしまった。負債が私に及ぶことはなかったが、大きな屋敷は売り払って、ひとりアパートに住むようになり、環境が激変してしまった。

故郷に帰ってきて、選挙が半年後に控えていた為、当選を果たすまではアパートに帰ると泥のように眠るだけであったから、寂しさを感じる間もなかった。しかし、当選後に時間的余裕ができると、環境の激変に否応なく気付かされた。それは、天涯孤独という実感だった。

あまりの寂しさに、犬を飼おうと思ったが、アパートがペット禁止であった為、縁日ですくってきた金魚を飼っている。赤と黒と白の3匹。帰ってきてからと朝に餌を少しずつ与える。名前も付けた。そのまんま、赤、黒、白だ。金魚で寂しさが無くなるわけではないが、水槽のそばに行き、名前を呼ぶと浮き上がってくるのが、とても愛おしく感じる。

変に思われるかもしれないが、金魚と会話をするようになって気づいたことがある。純粋な動物もそうだけど、気持ちが優しい人とも話をすると、同じように本当に癒される。そして、自分もそんな人間になりたいなと、最近、特に思うようになった。


「坊っちゃんせんせいー」今度は小学生の子供たちが黄色い声をかける。ただ、挨拶と言うよりは、からかい半分にちゃかしてようにしか見えない。内心「何が、ぼっちゃんじゃー」とも思うが、無邪気な子供たちの笑顔を見ると、ついかまってしまう。

特に、低学年の子供たちの天真爛漫さは心が癒される。信号が青に変わるまでの間、子供たちと戯れるひと時は、家族がいない私にとって至福の時間になっているのかもしれない。そんな楽しいこともあるのだが、最近になってまた別の楽しみも出てきた

今日も時計を見る、7時30分だ。そして瞬間がやってきた。たぶん、新しく赴任してきた先生だろう。春風が吹き、桜の花びらが舞う中に彼女が現れる。「おはようございます」と言うと、彼女も「おはようございます」と元気に声を返してくれる。それは、私には鶯のさえずりを感じさせる澄んだ声に聞こえ、にっこりと微笑んだその笑顔に、台風一過の空のように私の気持ちも晴れ渡る。そんな素敵な笑顔だった。

そして、会うたびにつれ、私の心の中に甘酸っぱい思いが広がっていくのだった。

(つづく)