Sweet Memories 2006

風がさーっと吹いて桜の花びらが舞うと、
風が優しく思い出を語りかけてくるようだ。
いつも不思議に思う。
なぜ春の風には、ほんのりとした甘い香りがするのだろう。
3年前もそうだった。
それは、自分の人生が激変していく時の流れの中、
何年たっても変わらない。

Sweet Memories 2006 あらすじ 全章目次

お互いに天涯孤独な主人公の小沢翔と一条真央が、葛藤の中、次第に魅かれあい、心の成長を図りながら恋が発展して行く心情を、細かく描写した作品です。構想3年、全6章で、最初は純愛小説のような内容ですが、第3章から、市議会議員の翔が、市長の公共事業のスキャンダルの真相に巻き込まれながら対決して行くという、サスペンスタッチで話が展開していきます。翔と真央の恋の結末は!裏の顔を持つ市長と翔の戦いの結果は!大胆なストーリー展開ながら、人情の機微を描写し、文章も出来るだけ読みやすいように工夫しました。ぜひ、お楽しみください。



目次


第1章 坊っちゃん先生の恋
 第1節 私は小沢翔
 第2節 私は一条真央
 第3節 二人の女子会
 第4節 ナイスなアドバイス

第2章 出会いは偶然に
 第1節 いざ、給食センターへ
 第2節 翔の成果
 第3節 市長登場
 第4節 真央の恋心

第3章 公共事業の闇
 第1節 元気の源
 第2節 ドタキャンから駒?
 第3節 父の死の真相

第4章 二人の恋
 第1節 初デート
 第2節 もうひとつの食事会
 第3節 墓場からのメッセージ


第5章 翔の決意
 第1節 逆転の一打 (議会工作 )
 第2節 スイートメモリーズ
 第3節 裏切り
 第4節 妻の自覚


第6章 新しい人生
 第1節 真央の病
 第2節 市長の焦り
 第3節 手紙
 第4節 決戦の時
 第5節 プロローグ―新たな旅立ち

第3章 公共事業の闇  第1節 元気の源

 給食センターの内覧会で、絵にかいたような偶然の出会いで真央と話ができてから、10日が過ぎていた。あれから翔は2度、朝の交通安全活動に行った。


 一度目は、いつもの7時半に真央と会い、挨拶を交わした。その時は、おはようございますの後に「この前はありがとうございました!」と真央に言葉をかけることができた。
 真央からも「いいえ、小沢先生もお疲れさまでした。」と返事が返ってきた。返事が返ってきたことも嬉しかったのだが、何よりも翔が嬉しく感じたのは真央の笑顔だった。
 この前までは硬い表情に変っていた真央だが、今回は、最初に出会った頃より、いや、それ以上に満面の笑みを翔に返してくれたのだった。「小沢先生」と呼ばれたことが、翔にとってはとても他人行儀な呼び方に感じたのだが、真央のこれまでにない笑顔が、そんな翔の小さなこだわりを吹き飛ばしていた。
 信号が赤になり、横断歩道を渡り切った真央が、歩みを進めながらもう一度翔に軽く顔を向けて、こくんと挨拶を送ってくれた。それを見ると、益々、翔はまた天にも昇るような気持ちになったのだった。真央の後ろ姿が見えなくなるまで、愛しい主人を見送る子犬のように立ちすくんでいた翔だった。


 2度目の朝街頭は翔にとって何ともお粗末な結果だった。
 真央との偶然の出会いから2度目の朝街頭に行く前の晩、翔は6月から始まる議会の一般質問に向けて深夜3時まで原稿の準備をしていた。一方、朝街頭は、翔が議員2期目になり、いろんな用事が朝から入るようになって、週1回か多くても2回くらいしか出来なくなっていた。深夜まで仕事をしていた翔だったが、次の日の朝は何も予定が入っていなかった。
「明日は行けるな。」
 そう思うと、ワクワク感で仕事の疲れも吹っ飛ぶようだった。
「朝6時に起きるとして、3時間寝れるな。」
 そうつぶやくと、ちょっと古びた目覚ましを6時にセットし、そそくさとベッドにもぐりこんだ。そして、幸福感を体いっぱい感じながら眠りについた。


 朝、ふっと目が覚めた翔は、何故か外が妙に明るい事に気付いた。「あれ、目覚ましがなっていないのにやけに明るいな。」寝ぼけた頭で考えていた翔を覚醒させるのに、そう時間はかからなかった。
「しまった!」
 幸せ感を一体化していた布団だったが、あわてて撥ね退けると、机の上に置いていた目覚ましを飛びつくように手に取った。5時33分だった。一瞬安堵したが、針が動いていない事にすぐ気がついた。部屋の掛け時計を見た。7時10分を指していた。翔は現実を受け入れた。そして、本能のままに叫んだ。
「オーマイガー!!」


 翔は、慌てふためきながら顔を洗うと、タンスからシャツとズボンを取りだし、ネクタイを着け、鏡の前で身だしなみを整え、朝街頭用のライトグリーンのジャンパーを手に取り、取り急ぎ靴をはくと、飛び出すように部屋を出た。そのドタバタぶりでアパートが揺れるようだった。
 アパートの階段を降りながら、ジャンパーを身にまとい、腕時計を見た。7時20分を過ぎようとしていた。
「いつもは自転車で15分だけど、飛ばせば10分で行けるな。間に合う!」
 心の中でそうつぶやくと、愛車の元へ駆け寄った。鍵を外し、ハンドルを握り、思いっきりペダルを踏もとした時、翔の目に飛び込んで来たものがあった。
 それは、支援者のおばあちゃんからもらった木彫りの交通安全のお守りだった。いつも自転車で移動する翔を見て心配していたのか、日光に旅行に行った時に売っていたと言ってお土産に買ってきてくれたのだった。
 翔は、おばあちゃんの気遣いをとても嬉しく思い、お守りを自転車のハンドルの真中にくくりつけて大切にしていたのだった。そしてそのお守りは、パニック状態になっていた翔を落ち着かせるのに十分な効果があった。
「そうだよなー。気持ちのままに突っ走って事故するとこだった。危な-」
 翔は、そうつぶやくと、お守りをぎゅっと胸に握りしめ、おばあちゃんの顔を思い浮かべながら感謝をするように目を閉じた。
 「有り難いなー。」
 再びつぶやくと、翔は自転車にまたがりゆっくりとペダルをこぎ出した。有り難いと思ったのは、家族を無くし天涯孤独の身になった翔にとって、わが身を案じて心配してくれる人がいることへの、何にも代えがたい感謝の気持ちの表れだった。
 翔が乗った自転車は、朝のまだ澄んだ空気を切りながら、故郷の町を進んでいった。


 「家族か―」風を切りながら進む翔は、ふとそんなことを思った。
 さっきのお守りで、おばあちゃんの暖かい心遣いに家族のぬくもりを感じたのだったが、そのぬくもりをもっと求めたいような気持が翔の中に芽生えていたのだろう。ただ、その事を翔ははっきりと認識はしていなかった。しかし、無意識の中で心が欲していたことは間違いなかった。翔は無性に真央に会いたくなっていた。
 そんなことを思っているうちに、安全運転で行こうと思いながら自転車を走らせた翔だったが、心無しかペダルをこぐ足の回転が速くなっていたのだった。
 しかし、翔が交差点についた時、時刻は7時33分になっていた。自転車を、歩道の通行に邪魔にならないように置き、交差点に立った。
「坊っちゃん先生、おはよー」
 いつものように子供たちがじゃれながら挨拶してくる。翔は、それが癒される瞬間でもあったが、今日に限っては、いつものように子供たちにかまうものの、真央の事が気になり気もそぞろだった。
 結局、7時35分になり、40分を過ぎても真央は現れなかった。
「今日は、一条さんもちょっと遅刻しないかな。」
心からそう願っていた翔だったが、そんなに都合がいい思いは実現するものではなかった。
事実、真央はいつものように7時30分ちょうどに横断歩道に着いていたのだった。
 一方、真央も「今日もいないなー。」と心の中でつぶやき、翔がいないことを淋しさも混じりながら、がっかりとした思いになっていたのだった。
 ただ、そんな真央の思いを知る術もなく、翔もその日は、深い海の底に沈んだかのような気持ちで、朝の街頭活動を終えたのだった。


 どんよりとした気持ちで「何であの時携帯番号を聞かなかったのかな―」「作戦ミスだったな―」など、そんなことを考えながら、翔が自宅にいったん戻ろうと、肩を落としながら自転車にまたがりかけた時、振動と共に携帯が鳴った。
「誰かな?」
 まだ、8時過ぎだったので、特にそんなふうに思ったのだろう。翔が着信を見ると高木からだった。ますます、翔の中に不安な気持が広がった。
「おはようございます、高木さん。」
「おはよう。翔、朝からすまない。ひょっとして、いつもの街頭中?」
「いえ、もう終わりました。高木さん、どうしたんですか?」
 いつもは、大切な用がある時にくらいしかかけて来ない高木だった為、なおさら何かあったのかと翔は思ってしまった。
「いや、実は俺が今から一日セミナーの講師をしなきゃいけなくて。それで今電話したんだけど。翔、今晩空いてる?」
 高木は、MBA(経営学修士)も持っていたが、国が認定している中小企業診断士の資格も取っていて、市議会議員の傍ら、経営コンサルタントの会社も経営しているのだった。
そして、分かりやすい内容と軽妙な語り口、また、端正な顔立ちから、経営セミナーの講師として、あちこちの商工関係の団体から依頼が来ているのだった。
 高木にとっては市議会議員の仕事が最優先であるので、セミナーの依頼を受けるのはたまにだったが、議員控室でも講師の依頼を断る電話をする高木をいつも見ていた翔は、「高木さん、コンサルタントでも十分食っていけるんだろなー。」という思いをしていたのだった。
 そんな忙しい高木が、急に誘ってきたので、翔は益々気になりだしていた。
「空いてますけど、何かありますか?」
 高木だと、こんな時、どんな要件なのか瞬時にに分かるのだろう。翔もにあれこれ考えたが、思いもつかないので素直に聞いてみた。
「いや、飯でもどうかなと思って。」
「飯ですかー」
 意外な誘いだったので、ちょっと拍子抜けした翔だったが、次の高木の言葉で奮い立った。
「いや、この前言ってた作戦会議。真央ちゃんの。今晩どうかなと思って。」
調子がいいと言えばそうなのだが、今日の翔にとってこの誘いは何よりも元気の源になった。急に翔の態度が明るくなった。
「大丈夫っす!高木さん、是非行きましょう!」
そんな翔の様子を高木は電話の向こうで微笑みながら感じとっていた。
「OK。じゃ、7時に駅前のレストランで。ラバレンヌってあるだろ。」
「・・・」
 通じていない事を高木は悟った。
「あのイタリアンレストラン。駅の交番の隣にある。」
「あー、交番の隣のおしゃれっぽいお店ですね。レンヌですね、分かりました。」
 通じたようだったので、高木は納得した。
「OK.。じゃ7時によろしく。」
「はい、よろしくお願いします。高木さん、ありがとうございます!」
 翔がそう言うと携帯から再びOKと言う高木の声がして電話が切れた。そしてそこには、さっきまで落ち込んでいた人間とは思えないほど元気になっていた翔がいた。
 「よっしゃー」
 そう言うと、意気揚々と自転車にまたがった。そして足取り軽くペダルをこぎ出した。
翔が乗った自転車は、新緑が香る街並みを颯爽と進みだした。その足取りは、自転車も「ルンルン」とリズムを取っているかのようだった。

第2章 第4節 真央の恋心

一日の勤めを終えた米倉恵と一条真央は、夕日にあたりながら川辺の土手道を並んで歩いていた。

「今日は早く終わってよかったねー。」

「そうですね、恵先輩。教師って本当に雑用が多いですよね。」

「ほんと。でも今日は内覧会があったから、校長も教頭も直帰しちゃって。おかげで、職員室も『皆さんたまには早く帰りましょう』って雰囲気になったからね。」

「そうですねー。内覧会さまさまってとこですか。」

 「だね。」

 米倉があいづちを打つと、少女のように二人は目を合わせて笑った。

 土手の下の河原では、小さい子供たちが野球の練習をしている。川にはカルガモの親子が一列になって泳ぎ、道端にはたんぽぽの花が咲き乱れ、黄色いじゅうたんを作っている。そよ風が吹き、夕日の優しい光にも包まれながら、歩いているだけで幸せな気分になってくるようだった。

 「ところでー」

 米倉は、包み込むような優しい声で真央に語りかけた。

「真央ちゃん、今日のイケメン君はどうなの?」

 そんな話題になるのは真央も予想はしていた。ただ、どう返答していいのか、自分でも分からなかった。それは、真央の心の中でも、自分が知らない領域(無意識の中)で葛藤が起こっていたのだった。

「そうですねー自分でもよく分かんなくて。」

数秒おいて、真央は今の正直な気持ちを言った。言った後で、普段は心の中を人に明かすことは絶対にしない自分が、本音を話したことを不思議に思った。それと同時に、米倉に話したことで心が少し軽くなったのにも気づいたのだった。

「そっかー、自分でも分かんないんだ。」

米倉の口調はさっきよりも更に優しかった。真央は、ただ自分の気持ちに共感してくれたそれだけでも、更に心が救われる気がした。

「そうなんです。好意を持っているのは分かるんですけど、反対にそれを受け入れようとすることに抵抗があって。」

「そうかー。自分でも彼の事を好きなのは分かっているけど、それを受け入れたくない自分もいるんだ。」

米倉は、真央が「自分が知らない自分」に気づき始めていることを感じ取っていた。

「そうなんです。受け入れたくない自分がいるんです。」

真央も、さっき心の中で起こっていた葛藤の原因がそこにあることに気づいたのだった。

 米倉は少し間を置くと、今度は神妙な顔つきになって、それでも優しく語りかけた。

「真央ちゃん、今まで生きて来て、何かとっても辛いことがあったんじゃない?」

 それは、キャリアカウンセラーの資格も持つ米倉だからこそ言い得たのかもしれない質問だった。

真央は米倉の言葉を聞いて、はっとした顔をして立ち止まった。すると次には、真央は米倉が今まで見たこともない、何とも言えない辛い顔をして何かを思い出そうとしていた。そして真央は気が付いた。この前、米倉と食事したとき、楽しいながら米倉に話せなかったことが何なのかを。やはり米倉の質問の効果は絶大だった。すぐに、真央は意を決したような顔に変わった。


「恵先輩。ちょっと座りませんか。」

真央は、手を差し伸べながら米倉を誘(いざな)った。

「うん。」米倉は、一言そういうとバックから2枚のハンカチを取り出し、二つ並べて土手の草の上に置いた。

「あっ、ありがとうございます。」真央は少し笑顔を見せた。

二人が土手に座ると、目の前にはまだ沈まんとする夕日が赤々と燃えていた。

「私、実は、恵先輩には言ってなかったけど、中学3年の時に両親を亡くしているんです。」

「そうだったんだ。」米倉は悲しみに満ちた声を深くゆっくりと吐いた。それでも、真央にとってその声は、気持ちを落ち着かせるほど愛情に満ちて伝わってきた。

「そうなんです。今まで、このことは誰にも話したことはなかったんです」

真央は少し間を置いた。なんでも米倉に話せる気になった。そして,堰を切ったように話し出した。

「15年前にあった南海大地震で、その時、私は修学旅行で京都に行ってたんですけど。京都もすごい揺れて。すぐにニュースで私の実家も被害にあっていることが分かって。修学旅行は中止になって、戻れるところまで帰ったんですが、実家の近くの原子力発電所が爆発して、立ち入り制限で入れなくて。

 その日から両親とも連絡が取れなくって。遺体安置所も数えきれないくらい回ったんですけど、見つかんなくて。何か月か経ってから1日だけ地元に入れることになったんですけど、実家は土砂被害にあってて土に埋もれていました。結局、両親の遺体も見つからずに捜索は終わったんですけど、残ったのは、修学旅行に行く前に母からもらったお守りだけ。少なかった親戚もいなくなり、私は孤児院に入りました。それ以来、私は天涯孤独の身になりました。

 最初の数年は、寂しくて寂しくて、優しかった両親の思い出が夢の中で蘇って、毎晩泣いてました。それでも、月日が経つと共に悲しみが記憶と共に少しずつ薄れていきましたが、それと同時に愛する人を失った恐怖から、ひと愛することがとても怖くなったんです。大学生の時に実感したんですけど、愛する人ができて、幸せな時を再び感じることができたらどんなにいいんだろうと思う反面、その人がまた居なくなったらと想像するだけで、恐ろしくなっちゃうんです。それ以来、私の心の中に氷でできた壁ができあがってしまったんです。」

 米倉は真央の話を黙って、時には相槌を打ちながら聞いていたが、いつも人前ではニコニコと笑顔を絶やさない真央が、そこまで辛い人生を送ってきたとは露ほども思わなかった。

 米倉も、離婚した時は苦しい思いもしたが、一粒種の息子の存在があった。母子家庭で子育てすることは苦労もあったが、子供の成長を見るだけで疲れも取れた。生きがいも持ってこられた。でも、真央は違った。衝撃的につらい出来事があって、孤独の中一人で生きてきた。真央の愛らしい笑顔は、人並み以上につらい思いをした者が大切にしようとする、人間愛そのものから発せられているのだろうと思った。

「そんなことがあったんだ。それが理由だったんだ。」

米倉にそう言われて真央ははっとした。真央は心の葛藤の原因となったいたことを、人前で初めて話すことができたことで、混乱していた頭の中が整理されたように感じた。そして、それまで、なぜ翔を遠ざけようとした理由に気づくことができたのだった。

「でも、真央ちゃんは、あのイケメン君の事が好きになったんでしょう?どうしてだと思う。」

真央の心を見透したかのように米倉は言葉を続けた。

「それは・・」

真央は、恥じらいの気持ちもあって多少躊躇したが、米倉が話しやすいように質問を展開してくれるので、気持ちのすべてを打ち明けようと思った。

「実は、愛する人を失う恐怖から逃げたいために作った氷の壁だったんですけど、1年くらい前から、30歳になったのがきっかけだと思うんですけど、私はこのまま一生独りでいるのかなと考え始めたら、今まで感じなかった違う淋しさが込み上げて来るようになって。多分、やっぱり心の中で家族を欲しがっている自分がいて、でも頭で愛する人を作らないと決めた自分もいて、そんな心と理性が私の中で格闘していたんだと思います。ただ、氷の壁が少しずつ解けてきている事も私の中で感じ取っていたんだと思います。

 そんな時、彼に出会ったんです。最初、朝に横断歩道で挨拶を交わした瞬間、彼の暖かい人柄を感じました。そして、しばらくしないうちに、彼の笑顔を見たんです。

 それは、ある日、信号待ちしている子供たちと彼がふざけ合っていて。その時の彼の満面の笑顔を見た時に、子供のころ両親が私に向けてくれた笑顔と同じくらいの暖かさを感じて。両親が亡くなってから、そんな思いをしたことは一度もなかったんですけど。

 私、なぜか涙が溢れそうになって。その時に、好きになっていたんだと思うんですけど、それよりも彼がとっても慈愛に満ちた心の持ち主だという事も直感で感じたんです。その瞬間、私の氷の壁にひびが入って行くような衝撃が走って。

 でも、それからは、益々苦しい思いをするようになって。やはり、心と理性の格闘が激しくなっていってたと思うんです。そうしたら、無意識に、彼の笑顔を見るのを避けるようになっている自分がいました。」

「そうなんだ―。確かに、彼はとても無垢な笑顔だったね。」

「はい。私が避けていることを彼が感じ取っていることも分かっていたんですけど、その時はどうしたらいいか分かんなくて。私、嫌な女だなと感じながらも、それ以上好きになるのが怖くって怖くって。でも・・・」

「そうだね―。真央ちゃんが葛藤する気持はすごく理解できるよ。あれだけ辛い思いをしてきたんだから。でも私、今日の昼間、余計なことをしちゃったかな。」

 米倉は、内覧会の会場で、最初は、何となく恥じらっていたが、次第に翔と楽しそうに話していく真央の姿を見ていて、真央の恋心は感じていた。そして、真央が「氷の壁にひびが入って行く」と言ったこと、最後に「でも・・・」と言ったことで真央の恋心を確信していた。 だからこそ、真央に敢えて聞いてみた。米倉は、それが真央が翔に対する気持ちを、自身の中で決断することを促すと思ったからだ。

 すると、米倉が思った通り、真央は、米倉の言葉に後押しされるように話し始めた。

「とんでもないです、恵先輩。私、最初はとても戸惑ったけど、あんなに近くでお話ししているうちに、いつの間にか楽しくなっていて。彼の金魚の話もとてもおかしくて。彼と話しているうちに、次第に暖かいもので包まれていくような感じになって。私、とっても楽しかった。私、恵先輩に話している内によく分かりました。愛する人ができることを拒絶しようとする自分がいることと、彼の事を好きになってしまった自分がいることを。 そして、本当の自分は、やっぱり彼を受け入れたいって思っていることを。」

「そうか。真央ちゃんは初めて真央ちゃんの氷の壁を溶かしてくれるかもしれない人に出会えたんだね。」

微笑みながら話す米倉の言葉を聞いて真央はこくんと頷いた。そして、米倉の「氷の壁を溶かす」と言ったことが、あまりにも今の気持ちを代弁するにピッタリである事にも気づいた。

同時に、両親を亡くしてからの15年の間、寂しい気持ちと闘ってきた緊張がほぐれていくのも感じた。真央の目に涙が溢れてきた。

「真央ちゃん、いままですごく頑張ったね。」

米倉は、真央の肩にそっと手をやり、囁くように、労うように声を出した。米倉の目にも涙が溢れていた。そして、米倉のその言葉で、ついに長年の緊張から解き放されようとしていた真央の心の糸がプツンと切れた。

「おとうさん!おかあさん!」

 そう叫ぶと、真央は米倉に寄りかかり大声で泣き出した。それは、幼い子が母親に甘えて泣き叫ぶ姿のようだった。米倉は真央をぐっと抱き寄せた。米倉の胸に顔を付けた真央は泣きじゃくった。真央の涙が米倉の胸を濡らしていくようだった。米倉は真央の純粋な人柄に触れとても愛おしく思った。本当の妹ができた思いがした。

米倉が顔を上げると、夕日が山の端に沈まんとしていた。真っ赤に燃えあがる美しい夕日が、いつもより大きく見えた。それは米倉の大きな瞳にあふれる涙が作る、ゆらゆらと燃え上がる玉響(たまゆら)の夕日だった。