一日の勤めを終えた米倉恵と一条真央は、夕日にあたりながら川辺の土手道を並んで歩いていた。
「今日は早く終わってよかったねー。」
「そうですね、恵先輩。教師って本当に雑用が多いですよね。」
「ほんと。でも今日は内覧会があったから、校長も教頭も直帰しちゃって。おかげで、職員室も『皆さんたまには早く帰りましょう』って雰囲気になったからね。」
「そうですねー。内覧会さまさまってとこですか。」
「だね。」
米倉があいづちを打つと、少女のように二人は目を合わせて笑った。
土手の下の河原では、小さい子供たちが野球の練習をしている。川にはカルガモの親子が一列になって泳ぎ、道端にはたんぽぽの花が咲き乱れ、黄色いじゅうたんを作っている。そよ風が吹き、夕日の優しい光にも包まれながら、歩いているだけで幸せな気分になってくるようだった。
「ところでー」
米倉は、包み込むような優しい声で真央に語りかけた。
「真央ちゃん、今日のイケメン君はどうなの?」
そんな話題になるのは真央も予想はしていた。ただ、どう返答していいのか、自分でも分からなかった。それは、真央の心の中でも、自分が知らない領域(無意識の中)で葛藤が起こっていたのだった。
「そうですねー自分でもよく分かんなくて。」
数秒おいて、真央は今の正直な気持ちを言った。言った後で、普段は心の中を人に明かすことは絶対にしない自分が、本音を話したことを不思議に思った。それと同時に、米倉に話したことで心が少し軽くなったのにも気づいたのだった。
「そっかー、自分でも分かんないんだ。」
米倉の口調はさっきよりも更に優しかった。真央は、ただ自分の気持ちに共感してくれたそれだけでも、更に心が救われる気がした。
「そうなんです。好意を持っているのは分かるんですけど、反対にそれを受け入れようとすることに抵抗があって。」
「そうかー。自分でも彼の事を好きなのは分かっているけど、それを受け入れたくない自分もいるんだ。」
米倉は、真央が「自分が知らない自分」に気づき始めていることを感じ取っていた。
「そうなんです。受け入れたくない自分がいるんです。」
真央も、さっき心の中で起こっていた葛藤の原因がそこにあることに気づいたのだった。
米倉は少し間を置くと、今度は神妙な顔つきになって、それでも優しく語りかけた。
「真央ちゃん、今まで生きて来て、何かとっても辛いことがあったんじゃない?」
それは、キャリアカウンセラーの資格も持つ米倉だからこそ言い得たのかもしれない質問だった。
真央は米倉の言葉を聞いて、はっとした顔をして立ち止まった。すると次には、真央は米倉が今まで見たこともない、何とも言えない辛い顔をして何かを思い出そうとしていた。そして真央は気が付いた。この前、米倉と食事したとき、楽しいながら米倉に話せなかったことが何なのかを。やはり米倉の質問の効果は絶大だった。すぐに、真央は意を決したような顔に変わった。
「恵先輩。ちょっと座りませんか。」
真央は、手を差し伸べながら米倉を誘(いざな)った。
「うん。」米倉は、一言そういうとバックから2枚のハンカチを取り出し、二つ並べて土手の草の上に置いた。
「あっ、ありがとうございます。」真央は少し笑顔を見せた。
二人が土手に座ると、目の前にはまだ沈まんとする夕日が赤々と燃えていた。
「私、実は、恵先輩には言ってなかったけど、中学3年の時に両親を亡くしているんです。」
「そうだったんだ。」米倉は悲しみに満ちた声を深くゆっくりと吐いた。それでも、真央にとってその声は、気持ちを落ち着かせるほど愛情に満ちて伝わってきた。
「そうなんです。今まで、このことは誰にも話したことはなかったんです」
真央は少し間を置いた。なんでも米倉に話せる気になった。そして,堰を切ったように話し出した。
「15年前にあった南海大地震で、その時、私は修学旅行で京都に行ってたんですけど。京都もすごい揺れて。すぐにニュースで私の実家も被害にあっていることが分かって。修学旅行は中止になって、戻れるところまで帰ったんですが、実家の近くの原子力発電所が爆発して、立ち入り制限で入れなくて。
その日から両親とも連絡が取れなくって。遺体安置所も数えきれないくらい回ったんですけど、見つかんなくて。何か月か経ってから1日だけ地元に入れることになったんですけど、実家は土砂被害にあってて土に埋もれていました。結局、両親の遺体も見つからずに捜索は終わったんですけど、残ったのは、修学旅行に行く前に母からもらったお守りだけ。少なかった親戚もいなくなり、私は孤児院に入りました。それ以来、私は天涯孤独の身になりました。
最初の数年は、寂しくて寂しくて、優しかった両親の思い出が夢の中で蘇って、毎晩泣いてました。それでも、月日が経つと共に悲しみが記憶と共に少しずつ薄れていきましたが、それと同時に愛する人を失った恐怖から、ひと愛することがとても怖くなったんです。大学生の時に実感したんですけど、愛する人ができて、幸せな時を再び感じることができたらどんなにいいんだろうと思う反面、その人がまた居なくなったらと想像するだけで、恐ろしくなっちゃうんです。それ以来、私の心の中に氷でできた壁ができあがってしまったんです。」
米倉は真央の話を黙って、時には相槌を打ちながら聞いていたが、いつも人前ではニコニコと笑顔を絶やさない真央が、そこまで辛い人生を送ってきたとは露ほども思わなかった。
米倉も、離婚した時は苦しい思いもしたが、一粒種の息子の存在があった。母子家庭で子育てすることは苦労もあったが、子供の成長を見るだけで疲れも取れた。生きがいも持ってこられた。でも、真央は違った。衝撃的につらい出来事があって、孤独の中一人で生きてきた。真央の愛らしい笑顔は、人並み以上につらい思いをした者が大切にしようとする、人間愛そのものから発せられているのだろうと思った。
「そんなことがあったんだ。それが理由だったんだ。」
米倉にそう言われて真央ははっとした。真央は心の葛藤の原因となったいたことを、人前で初めて話すことができたことで、混乱していた頭の中が整理されたように感じた。そして、それまで、なぜ翔を遠ざけようとした理由に気づくことができたのだった。
「でも、真央ちゃんは、あのイケメン君の事が好きになったんでしょう?どうしてだと思う。」
真央の心を見透したかのように米倉は言葉を続けた。
「それは・・」
真央は、恥じらいの気持ちもあって多少躊躇したが、米倉が話しやすいように質問を展開してくれるので、気持ちのすべてを打ち明けようと思った。
「実は、愛する人を失う恐怖から逃げたいために作った氷の壁だったんですけど、1年くらい前から、30歳になったのがきっかけだと思うんですけど、私はこのまま一生独りでいるのかなと考え始めたら、今まで感じなかった違う淋しさが込み上げて来るようになって。多分、やっぱり心の中で家族を欲しがっている自分がいて、でも頭で愛する人を作らないと決めた自分もいて、そんな心と理性が私の中で格闘していたんだと思います。ただ、氷の壁が少しずつ解けてきている事も私の中で感じ取っていたんだと思います。
そんな時、彼に出会ったんです。最初、朝に横断歩道で挨拶を交わした瞬間、彼の暖かい人柄を感じました。そして、しばらくしないうちに、彼の笑顔を見たんです。
それは、ある日、信号待ちしている子供たちと彼がふざけ合っていて。その時の彼の満面の笑顔を見た時に、子供のころ両親が私に向けてくれた笑顔と同じくらいの暖かさを感じて。両親が亡くなってから、そんな思いをしたことは一度もなかったんですけど。
私、なぜか涙が溢れそうになって。その時に、好きになっていたんだと思うんですけど、それよりも彼がとっても慈愛に満ちた心の持ち主だという事も直感で感じたんです。その瞬間、私の氷の壁にひびが入って行くような衝撃が走って。
でも、それからは、益々苦しい思いをするようになって。やはり、心と理性の格闘が激しくなっていってたと思うんです。そうしたら、無意識に、彼の笑顔を見るのを避けるようになっている自分がいました。」
「そうなんだ―。確かに、彼はとても無垢な笑顔だったね。」
「はい。私が避けていることを彼が感じ取っていることも分かっていたんですけど、その時はどうしたらいいか分かんなくて。私、嫌な女だなと感じながらも、それ以上好きになるのが怖くって怖くって。でも・・・」
「そうだね―。真央ちゃんが葛藤する気持はすごく理解できるよ。あれだけ辛い思いをしてきたんだから。でも私、今日の昼間、余計なことをしちゃったかな。」
米倉は、内覧会の会場で、最初は、何となく恥じらっていたが、次第に翔と楽しそうに話していく真央の姿を見ていて、真央の恋心は感じていた。そして、真央が「氷の壁にひびが入って行く」と言ったこと、最後に「でも・・・」と言ったことで真央の恋心を確信していた。 だからこそ、真央に敢えて聞いてみた。米倉は、それが真央が翔に対する気持ちを、自身の中で決断することを促すと思ったからだ。
すると、米倉が思った通り、真央は、米倉の言葉に後押しされるように話し始めた。
「とんでもないです、恵先輩。私、最初はとても戸惑ったけど、あんなに近くでお話ししているうちに、いつの間にか楽しくなっていて。彼の金魚の話もとてもおかしくて。彼と話しているうちに、次第に暖かいもので包まれていくような感じになって。私、とっても楽しかった。私、恵先輩に話している内によく分かりました。愛する人ができることを拒絶しようとする自分がいることと、彼の事を好きになってしまった自分がいることを。 そして、本当の自分は、やっぱり彼を受け入れたいって思っていることを。」
「そうか。真央ちゃんは初めて真央ちゃんの氷の壁を溶かしてくれるかもしれない人に出会えたんだね。」
微笑みながら話す米倉の言葉を聞いて真央はこくんと頷いた。そして、米倉の「氷の壁を溶かす」と言ったことが、あまりにも今の気持ちを代弁するにピッタリである事にも気づいた。
同時に、両親を亡くしてからの15年の間、寂しい気持ちと闘ってきた緊張がほぐれていくのも感じた。真央の目に涙が溢れてきた。
「真央ちゃん、いままですごく頑張ったね。」
米倉は、真央の肩にそっと手をやり、囁くように、労うように声を出した。米倉の目にも涙が溢れていた。そして、米倉のその言葉で、ついに長年の緊張から解き放されようとしていた真央の心の糸がプツンと切れた。
「おとうさん!おかあさん!」
そう叫ぶと、真央は米倉に寄りかかり大声で泣き出した。それは、幼い子が母親に甘えて泣き叫ぶ姿のようだった。米倉は真央をぐっと抱き寄せた。米倉の胸に顔を付けた真央は泣きじゃくった。真央の涙が米倉の胸を濡らしていくようだった。米倉は真央の純粋な人柄に触れとても愛おしく思った。本当の妹ができた思いがした。
米倉が顔を上げると、夕日が山の端に沈まんとしていた。真っ赤に燃えあがる美しい夕日が、いつもより大きく見えた。それは米倉の大きな瞳にあふれる涙が作る、ゆらゆらと燃え上がる玉響(たまゆら)の夕日だった。